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インタビュー

デカセギからRIZINへ~サトシとクレベル、日系ブラジル人とボンサイ柔術と日本の絆

2021/06/12 11:06
デカセギからRIZINへ~サトシとクレベル、日系ブラジル人とボンサイ柔術と日本の絆

(C)RIZIN FF

【2021年6月掲載】

 リング上の勝者はトロフィーを掲げてマイクを手に取ると、「ごめん。今日はちょっと難しい話がある」と、満員のアリーナの観客に語りかけた。

「ほんとうにありがたい人はいっぱいいる。私のチーム、私の家族……今日のこのトロフィーは一人ね、一人にあげたい。サカモト・ケン! いつも私を手伝ってくれて本当にありがとう。ごめんね、1カ月前、あなたのお母さん亡くなったね。だから今日、たくさん練習してきた……。お願い、お母さんに持っていって」──そこには、日系3世のホベルト・サトシ・ソウザらブラジリアンと、浜松・磐田の日本人との魂の交流の物語があった。



 13年前、単独で“デカセギ”が可能になる18歳の誕生日から1週間後、サトシはブラジルから来日した。静岡県磐田市の工場で鉄の加工の仕事につき、朝6時半の送迎バスに乗って仕事に向かう日々。サウナのように暑い作業場のなか、重い鉄を扱うライン仕事は過酷で、すぐに体重が減ってしまった。“ザンギョウ”は時に深夜に及ぶ。それは多くの日系ブラジル人労働者たちの日常だった。


【写真】1908年(明治41)4月28日、神戸港を出た笠戸丸。 

“ニッケイ”と呼ばれたブラジル人たち。そのルーツは113年前に遡る。

 1908年4月28日、781人の日本人が「笠戸丸」で神戸港を出港し、52日後の6月18日にサンパウロ州のサントス港に到着した。最初のブラジル移民だった。

「錦衣帰郷」の言葉とともに故郷に錦を飾ろうと過酷な環境のなか入植した日本人の多くが、現地に根を張った。その2世・3世たちが30年前、「錦衣」の帰郷ではなく「デカセギ」として来日した。

 当時、日本はバブル景気の好況とともに労働力不足が深刻となり、1990年に入管法を改正。以降、滞在期間や就労に制限がない「定住者」として認められた日系ブラジル人たちが多数来日し、日本の製造業などを支えた。

 現在、国内最大級の格闘技大会「RIZIN」で活躍するホベルト・サトシ・ソウザ、クレベル・コイケ(ともにボンサイ柔術所属)もその一人だ。

 2019年7月28日、『RIZIN.17』さいたまスーパーアリーナ大会で1R TKO勝ちしたサトシがマイクで呼び掛けたのは、浜松でソウザ兄弟とともにボンサイ柔術の日本支部起ち上げに尽力した人物の名前だった。

 坂本健──2004年にサトシの兄、長兄のマウリシオ・“ダイ”・ソウザが来日してから17年間、ソウザ兄弟とともにボンサイ柔術を支援してきた人物。その坂本の亡くなった母に、サトシはトロフィーを捧げたい、と言っていた。

 出稼ぎとしての“ニッケイ”ブラジル人には、これまで「派遣切り」など大きく3度の危機が訪れている。最初は2008年のリーマンショック、2度目は2011年東日本大震災、そして、3度目はコロナ禍の今、だ。


【写真】笠戸丸の甲板に立つ日本人移民たち。

 そんな中、なぜサトシをはじめとするボンサイ柔術の面々は、日本に残ったのか。そして、2021年6月13日(日)「RIZIN.28」東京ドーム大会で、サトシがGP王者のトフィック・ムサエフと、クレベル・コイケが朝倉未来と対戦するまでに至ったのか。

 そこには、移民として海を渡った人たちを祖先に持つ日系人が、日本をルーツとする「柔術」を通して、日本に根付いた「共生」の歴史があった。

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