日本人はフリオ(冷たい)じゃなかった
リーマンショック後、職を失い「あなたの国に帰りなさい、ここにいる必要はない」と日本人から言われ、多くの同朋たちが帰国した。しかし、サトシには、この地で「一緒に歩いてくれる人」たちと、すべきことがあった。
ブラジルで父アジウソンから、いつも「人として正しい道を進むように」「やるべきことに100パーセントを注ぎなさい」と言葉を受けていたサトシは、末期がんで入院した父のために一時帰国し、直に黒帯を手渡されている。それは「アジウソン ソウザ」と刺繍された父の黒帯だった。
「この帯を病院のベッドの上ではなくタタミの上で渡したかった。でもここから出られないって分かっている。この帯を誇りに思い、幸運を祈る。腰に締めるたびに、“何を求めるべきか”思い出して。力になるから」
サトシにそう言った夜、父は逝った。
【写真】RIZINで柔術衣を着て入場するサトシ、その帯は父から譲り受けたものだ。(C)RIZIN FF
「父が危篤状態のとき、私たちはお金が無くてブラジルに帰れなかった。そこでお金を貸してくれたのが、お父さんの知人でした。その時、彼に聞かれたんです。『なんでまだ浜松にいるのか? なぜブラジルに帰って来ないのか?』と。そのときに兄のマルキーニョスと話し合ったのは、私たちには夢がある、ということ。将来的にボンサイ柔術を世界に広めていくという夢を持っていて、その目標があったから、決して諦めなかったし、これからも諦めない」
【写真】試合前も道衣での練習を行っていたサトシ。スパーで挑むボンサイ柔術の鈴木琢仁も、6月19日のDEEP TOKYOのセミファイナルでAACCの石塚雄馬と対戦する。
サトシがデカセギをしながら、ムンジアル(柔術世界選手権)の紫帯と茶帯で優勝したのは、来日後だ。欧州選手権では黒帯を制している。青帯まではブラジルで基礎を作り、それ以降は日本でしか練習していなかったサトシが優勝したことは、世界の柔術家を驚かせた。日本で「世界」を獲ることは不可能と言われていた状況を、サトシが切り開き、サトシの活躍を見て日本の柔術家、そして日本のブラジリアンコミュニティの子供たちも「頑張れば僕たちもできる」と希望を持つことが出来た。
そんなサトシたちを見守ってきたのが、坂本健の母・正子さんだった。2018年の秋にステージ4のがんと宣告を受けながらも治療を耐え抜き退院。マルキーニョス、サトシ、クレベルの試合をいつも会場で応援してきた。
【写真】勝利者トロフィーを天国の正子さんに渡して、と伝えたサトシ。
「サトシのRIZINデビューが決まった時も、すぐに母を連れていく約束をしました。まだ10代の頃からサトシを見て来た母は、サトシが念願のRIZINで勝利したことを我がことのように喜んでいて、サトシも勝利後、浜松に帰る前に横浜アリーナの観客席にいる母にこっそり会いに来てくれたんです。その後、母は様態が急変し緊急入院し、6月16日にこの世を去りました」(坂本)
冒頭のサトシの言葉は、この正子さんに向けた言葉だった。2019年7月さいたまスーパーアリーナで勝利したサトシは、日本の母を失い、勝利者トロフィーを捧げた。
【写真】左から坂本健、サトシ、正子さん、坂本の父、マルキーニョス。
「どこへ行っても、僕が試合をすると坂本さんのお母さんも一緒に来ていて、応援してくれた。常に自分と一緒に歩いてくれた。日本人はフリオ(冷たい)という人もいたけど、そんなことはなかった。日本でボンサイ柔術を始められたのも、今、坂本さんが僕を助けてくれているのも、坂本さんのお母さんが坂本さんと僕らを助けてくれたからだと思っています」(サトシ)
「柔術は規律を与えてくれる」という。
道場では生徒たちが待っている。キッズたちに最初に教えるのは基本の技と「防御」だ。自身をいかに護るか。柔術の源がセルフディフェンスなら、自分の心も護れないといけない。だから、2019年のライト級トーナメントのジョニー・ケース戦で見せたような、心が折れる敗戦はもうしたくない、という。
2021年6月13日、東京ドームで、RIZINライト級のベルトがかかる試合を前に、サトシは誓う。
「前回のトーナメントで優勝したムサエフのことをすごくリスペクトしている。でも、たとえどんなに劣勢になっても、諦めない。心も身体も柔術が護ってくれる。ラスト1分でも一瞬を逃さない。上にいても下にいても、どこにいても必ず、極めてみせる」