MMA
インタビュー

デカセギからRIZINへ~サトシとクレベル、日系ブラジル人とボンサイ柔術と日本の絆

2021/06/12 11:06

「派遣切り」に身を寄せ合って暮らした

 そんななか、2008年の秋、リーマンショックが起きた。

 ブラジル人の多くは短期契約の非正規雇用。不況で最初に痛手を負うのは社会的弱者だ。雇用の調整弁として働き「派遣切り」で職を失うと、派遣会社の寮で暮らしていた多くのブラジル人達が住む場所を失い、突然の帰国を余儀なくされた。

 橋の下で寝泊まりをする者も現れるなか、日本政府は「帰国支援金」として、手切れ金のように30万円を給付して帰国をうながした。しかし「5年間再入国禁止」という厳しい条件付きだった。抜け穴のように法を改正し“ニッケイジン”を利用するだけ利用し、都合が悪くなると「国へ帰れ」という。そのとき、マルキーニョスもサトシもクレベルも、ブラジルには帰らず、日本に残った。

 ひとつのアパートに身を寄せ合って暮らす日々。当時を彼らはこう振り返る。


【写真】自動車部品の関連工場に勤めていたマルキーニョス。

リーマンショックの頃は、道場に日系ブラジリアンが多かったから、すぐに道場経営が成り立たなくなった。ブラジル人がみんな帰ったり、残っててもみんな給料が無いから、月謝を払えない。2年くらい、ただ家賃を払い続けて。だんだん生徒が戻って来たときに、今度は2011年にツナミが起きた……大変だったけど、このときは日本に恩返しがしたくて、チャリティーセミナーで物資を集めて、被災地まで送ったりしたよ(マルキーニョス)


【写真】2008年、浜松のボンサイ柔術創設時に兄弟でペンキ塗りをするサトシ。

当時は本当に一番キツかった。工場の仕事も急に午後2時とか3時までに短縮されて、給料もすごい下がった。道場生も数人になってしまって、わずかなお金を食費にあてていた。マルキーニョスとクレベルとお金を持ち寄って、3万円ずつ分け合って暮らしていた。ブラジルに戻らなかったのは、夢があったから。私の夢は日本での夢だった。でもいろいろなデカセギ外国人たちはやっぱりお金を貰って帰ったよ。それぞれの事情があったし目的が違う。私はここで成長したかった。いまのようにRIZINも無いし、ツラい時期だったけどね」(サトシ)


【写真】共同生活をしていた頃の(左から)サトシ、マルキーニョス、クレベル、エヴェルトン。クレベルの表情がまだ幼い。

リーマンショックのときは18歳だった。家族で家を買うためのお金を貯めてたけど、それをブラジルに帰るための費用にあてることにして、両親たちはブラジルへ帰った。僕はちょうど柔術から2008年にMMA(総合格闘技)でデビューしたときだったから、ツラくても日本に残ったよ。工場の仕事が無いときは、養鶏場やゴミ回収のアルバイトもした。頭の中は、“一度やってみなきゃ分からない”だった。自分の柔術をMMAで試してみたかった。日本でどれだけ格闘技でやれるのかも。

 もともと柔術は日本がルーツだ。それを僕は、日本で出稼ぎにきて、このボンサイ柔術で習ってプロファイターになった。あのときブラジルに帰っていれば……それはいまに至るまでの道のりより簡単なルートだけど“ニゲミチ”だった。そしていまの僕は無かった。ここにはボンサイ柔術と、サカモトさんのように、僕ら“ニッケイ”を繋ぐ日本人がいたし、日本の“セイト”たちがいたからね」(クレベル)

 日系ブラジル人と日本人、その壁を感じていた日本人もいた。

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