「ハビブは通用するのか。ハビブがもし負けたなら仕方ない、UFCはレベルが違うんだ」と。でも僕は一本勝ちした
ダゲスタン共和国で生まれたハビブ・ヌルマゴメドフは、レスリングやサンボ、柔道の元選手で、格闘技の手ほどきを受けた父親アブドゥルマナプ・ヌルマゴメドフを、2020年7月3日、新型コロナウイルスによる合併症で亡くした。まだ57歳だった。
このウイルスが無ければ、父はまだハビブのコーナーに座り息子を叱咤し、“イーグル”と呼ばれた親子鷹はともに「30戦無敗」に向かっていたであろう。この得体の知れないウイルスは、固い絆で結ばれた父子を離したまま、最後の刻を迎えさせたのだ。
ダゲスタン共和国のチュマジンスキー地区シルディのアヴァール人の家系に3人兄妹の次男として生まれたハビブは、2001年に家族と共に首都マハチカラに移住した。
前述の通り、格闘技選手だった父親アブドゥルマナプが2階建ての自宅の1階を改築して作った格闘技ジムで、8歳でレスリング、15歳で柔道、17歳からコンバットサンボを学び、コンバットサンボのロシア王者と世界王者にそれぞれ2度、輝いている。
32歳、キャリアの頂点にあったUFC統一世界王者はなぜ、父の死とともに「生涯の仕事」から身を退くことを決めたのか。
その一端がうかがえる2016年のインタビューをUFCヨーロッパが公開した。当時、UFCで6連勝、MMAで22連勝(無敗)を飾っていたダゲスタンの鷲は、父との関係を次のように語っている。
「怪我を重ねるたび、もう身体が持たないから辞めてしまおうかと思った自分を、お父さんが『一人で決めることじゃない、お前はやれる』と説き伏せてここまできた」
無敗でまるで“超人”のように思われるハビブだが、ほかのファイター同様に、怪我をし何度も『辞めよう』と思ったという。
2014年4月から2016年の4月までは、たび重なるヒザの負傷や肋骨の骨折により、2年もの間、オクタゴンを離れた。落胆したハビブは一度は警備員になることを検討したが、父アブドゥルマナプは、その計画に同意しなかった。彼は息子が格闘技を諦めないように、モチベートし続けた。
「特に、MMAを始めた初期の頃は、ロシアでMMAってそんなにポピュラーじゃなかったというか、知られているのはヒョードルくらいなもので、みんなに『UFCってどうかな』と聞くと、『そんなの無理』っていう感じだった。2011年の終わりに16勝を経てUFCとサインしたら、みんなが『すごい』と声を上げた。2012年の1月のデビュー戦はすべての共和国民にとって待ちわびた瞬間だったと思う。“ハビブは通用するのか。ハビブがもし負けたなら仕方ない、UFCはレベルが違うんだ”と。でも僕は一本勝ちした(カマル・シャロルスにリアネイキドチョークで勝利)。そしてロシアの多くの選手への道を開いた。僕はある種、歴史を打ち立てたというか、決して些細なことじゃないと思ってる。このことは10年とか20年経ってから大きな歴史として、多くの人に語られることになると思っている」
ハビブ以前、MMAにおいてロシアとは、東スラブ人によるものを指すことが多かった。ウクライナ生まれのエメリヤーエンコ・ヒョードル、イゴール・ボブチャンチン、ベラルーシ出身のアンドレイ・アルロフスキー、トゥーラ出身のイリューヒン・ミーシャ……しかし、ハビブ・ヌルマゴメドフやアリ・バガウティノフらダゲスタン共和国の“第一世代”ファイターたちがオクタゴンで勝利を挙げることで、北カフカス(コーカサス)のファイターたちに、MMAの新たな道を切り拓いたことは確かだ。
ハビブは言う。「父はいつも、『もし目標があって、何かしたいことがあるなら、ハードワークをこなさなければいけない。もし簡単な道を選べば、誰か別の人間がそれを取ってしまうだろう。だから一生懸命やらなくてはいけない』と言ってた。もしお父さんがコーチじゃなかったら、僕は違う人間になっていたと思う。UFCに来ることなど叶わなかっただろうし、父が常に自分を後押ししてくれた」