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PRIDE、UFCで活躍したジョシュ・バーネットが主宰するプロレスイベント『Bloodsport』の日本大会「ブラッドスポーツ武士道」が6月22日(土)、両国国技館で開催される。
現在ではプロレスと格闘技競技は別だが、そのルーツを知ることは、格闘技興行の成り立ちを知ることにもなる。ジョシュに聞いた、プロレスとはどこから来て、どこへ行くのか──。
「暴力」がまるで自分の世界の地続きに存在していないかのようにしている
──競技としての格闘技とプロレスリングはいつしか分かれました。「リアルファイト」というのは、ある種の矛盾を含んだ、実現不可能なものを実現させようとする試みのなかにあると自分は考えます。そんななかであなたが新たにプロレスイベントとして『Bloodsport』(6月22日・両国国技館)を起ち上げるそうですが、格闘技専門誌としてはジョシュに、格闘技とプロレスの関係を思考するうえで、プロレスがどこから生まれたのか、をうかがいたいと思います。
「うむ、それはコンセプトの意味で聞いているのかい? あるいは物理的条件で、つまりいつどこで誰が始めたことかを聞いている? というのも、技術的な意味で言えばプロレスリングは、常に存在してきたものだ。つまり“暴力”という要素があらゆる人類の存在にとって基本的な側面のひとつであるから。暴力それ自体はね」
──まずはコンセプトから。というのもそれは格闘技興行のルーツのひとつでもあると考えるからです。
「なるほど。我々が生息している世界というのは、暴力を媒介、あるいは代替可能な世界なんだ。他の……つまり暴力というのは、我々が権威を与えうる、外側にある存在によって行われるものなのだが、世界のあらゆる存在間の相互作用の中に、暴力がいつでも、あらゆる繋がりの中に潜在的に存在するという事実は変わらない。
我々──俺を1人称とする西洋の我々だ──や、西洋と東洋の隣接する、日本のような世界は共存して生きることができるにもかかわらず、暴力が抽象的な意味でしか存在しないかのように振る舞う社会を構築する方法を見つけた。
人は“暴力性を好まないかのように振る舞う”ために、何か、別のところで起きている他人事(ひとごと)で、ニュースで起きていることのようにしか意識していなくて、まるで自分の世界の地続きに存在していないかのようにしてるということだ。自分にも、あなたにも、ほかの誰にとっても、いつ、どこで起きているかどうかさえも分からないって。しかしながら起きていることは事実、そこで起きているんだ」
──その通りで「問答無用」の世界は、いまも我々の生活の地続きにある。
「もし自分が(暴力的な)相手に『やめて/やらないで』と(言葉で)指示するとする。そうしたら相手は、『いや、自分のしたいようにするよ』と返事するだろう。では他にどんな手段がある? 代理人を立てるわけだよね。暴力が発動したときに、(日本語で)“コウバン(交番)”は、その時どうする? そして公的権力はそれをどう扱うのだ。彼らは一体いつやってくるのだろう。いつ何が起こり、誰がそれを決めるんだろう。結局自分が決断を下すのか?
『よし、お前のケツを蹴り上げてやるぜ』
『いやいや、そんなことはできないぞ、しちゃいけない、違法行為だ。交番を呼ぶぞ』
『いいだろう。じゃあ俺がお前をやっちまうまでにそいつらが到着するのにどれくらいかかるんだ?』
……もっと具体例で言うなら、たとえば秋葉原で誰かが突然トラックで暴走して人をはねまくったあとに降りてきてナイフを振り回してきたらどうする?
『おい、誰も刺すなよ、交番が来るまでは』って? そんなわけがないだろう。
というような話とプロレスがどう関わるかというと、あらゆる行為において、危険は伴う、ということなのだ。つまり。ファイティング=“リアル・ファイト”においては、命に関わる痛みを受けたり、傷を負ったり、ひいては死ぬという結果を可能性として潜在的に伴っているのだ」