「神話」的なものを作り出すために『Blood Sports』はある
──ファイトがほかのスポーツと異なるとしたら、かつてその大きな部分を担っていたボクシングのように、人が人を殴り、相手に直接的なダメージを与えることで強さを競う、「文明のタブーと思われていることを犯す」点にあるのでしょうか。
「ここでまた本当に自分としては何か浮かび上がってくるものがある。ここで君が言わんとしていることとは関係ないかもしれないが、『ボクシングが文明のタブーを犯している』という点についてだ。思うに文明が存在しうるのは、暴力がその土台を築いているからなのだ。そして、そこに非暴力的な人が入ってきて、暴力的な部分を蹴散らし、暴力的な部分を支配しようとするのだ。非暴力の側は、暴力のある世界では自分たちが牛耳っていけないからこそ、チームを組み徒党を組んで、暴力排除のシステムを構築する方法を見つけ出す。彼らは非暴力的な人々、あるいは暴力で成功することができない人々なのだ。そういう人たちがそれを文明におけるタブーとする。したがって、戦えない者たちが文明を担い、戦える者たちは文明を支配するために使役されることで、文明は平和だとされるのだ」
──それはその、作られたシステムにおいてタブーとされているということですね。だからこそ、そのシステムの外にいようとするものに惹かれるということでしょうか。
「いや、それは別の考えなのだ。暴力と文明と平和について、そしてそれらがいかに対立的であり、またいかに相乗的であるかについて、そしてそれらがいかに互いに重なり合わなければならないかについて、もうこれだけで壮大な議論だな。
官僚は王国を作るために戦士を必要とする。しかし、その戦力によって王国を失うかもしれないので、彼らは戦士をどこにも置きたがらない。政治家たち、つまり戦えない者たちというのは、土地を開拓し物を作り建築家が建物や城壁を建てることができるような構造を作り、それを守るための軍隊や武力を持つために戦士を必要としているのだ。その一方でその築き上げた城壁の中央部には、まったく戦えないものたちの金で溢れかえり、戦えるような者が二度とトップに立てないようにするために、あらゆる手を尽くす。そうなると文明なんてものは単なる、ただただ果てしなく長くて、苦々しいゴシップや噂、不平不満の集合体でしかなくなる」
──「キーボード・ウォリアー」さえも出て来る(苦笑)。
「いや、もっと悪い。やつらは教えてくれないから、税金をいくら払えばいいのか、何のために払えばいいのか、どこに行けばいいのか、誰がどうすればいいのか、どこに駐車すればいいのか、何も教えてくれやしないのだ。国家を構築するのは非常に難しく、複雑なビジネスであり、そのバランスは非常に難しい。文明や国家、政府、都市、その他もろもろを築くようなことというのは。均衡を保たなければならないけれど、それはとても難しいことで、常に傾き続けている。分からないけれど、ある意味、死んでいるのかもしれない」
──壮大な話で難しいですね……。成り立ちの一部は分かりました。そしてジョシュが届けるプロレスには間違いなく「ファイト」があると。プロレスリングの原点のような試合に近いかもしれないですね。ロープに振ったり、コーナーポストから跳ぶ必要もない。マット上だけで戦う。それはバイオレンスだと。
「すべてのプロレスは同じだ。どれも戦いは同じなのだ。困難、挑戦、問題点、そういったものを乗り越えなければならないのだ。顔に受けたダメージを乗り越え、カットもするかもしれないがそれも乗り越え、対戦相手を乗り越え、怪我を乗り越え、あらゆる苦難を乗り越えなければいけない。苦しみであり辛さであり、それら全てを乗り越えなくてはいけないという点で同じなのだ。そしてその全てを克服するというストーリであり、これはいつだって同じなんだ、戦いにおいて。
新しいストーリーを物語ろうとするつもりなどない、必要ないからだ。このストーリーはタイムレスでありエイジレスであり、国境も、文化的な違いも人の隔たりもない。世界に普遍的なものがあるとするならば、それは、暴力であり、格闘であり、闘争なのだ。誰もが、それはどのようなものかを知っている。しかしながら、それを“俺は自分の知っているやり方で伝えたい”のだ。どうやって? 観客の感情に届くように、我々にしかできない精神によってだ。
そのためには、ギミックを減らし、コスチュームを減らし、照明や爆発を減らし、ロープを使わず、もっと純粋に、もっと生々しくすることだ。そうすれば、アスリートの中にあるもの、リングの中にあるもの、それだけが残る」
──リングの無いマットだけの会場で、ジョシュvs.鈴木みのるを米国の観客が固唾を飲んで見守っていて驚きました。
「そうだろう。なぜなら典型的なプロレス観戦は、今まで見てきた他のと同じように考え、同じように理解し、同じように感じるだろう。知っているように見えるからだ。『Blood Sports』はそういう類のものじゃない。人に衝撃を与えるようなものでなければならないし、注目されなくてはいけないし、金を払うに値するものでなければいけないし、究極的には見た人から最も強烈な感情を呼び起こし引き出すようなものでなくてはいけない。この場に居合わせているということをいかに感じ取るかが重要なのだ。
『Blood Sports』は、人々が怒りであったりという、何か違う感情を発散させるためではなく、あるいは単に逃避のためでもなく、人々が感情を発散して前に進もうとするためにあるわけでもなくて、何かヒーロー的なものを見て、人々を感動させ、(日本語で)“神話”的なものを作り出すためでもある。そして、その神話性なるものが、人々を単に楽しませるだけでなく、自分自身の考えをより大きく、より高く持てるように駆り立てる、つまり、より見ている対象、こういうイベントに神話的な要素を強く持って思考することで、それが何であるかという点で、物理的な、物質的な事実ではなく、それが何たるかという、神話的なものなのだ。
たとえば、映画は現実のものではない。物語だ。物語を見るとき、その中の何が真実で何が嘘なのか、ということではないだろう? というのが神話性と言っていることで、映画を通して語られていることは何なのか? それこそが重要なのであって、これが何分の映画だったのか? この映画のなかでセットチェンジは何回あったのか? そういうことではないはずだ。最近の人々はIMDB(※Internet Movie Database)の中で迷子になってる。そこにある情報が映画のすべてだとでも思っているのか。知らなくてもいいような情報の羅列ばかり見て、クソみたいに映画を“見た的な”気持ちになる。もし自分にとってしっくりこないところがあるなら、議論すればいいのだ。全部の要素に分解してあることには意味がない」
──『Bloodsport』の鈴木戦はフロリダのタンパで行われていましたね。
「そう。神様がいた場所だ。ハンガリー系の家系のグレコローマンのレスリング王者たるカール・イスタズ(※カール・ゴッチの本名)については重要じゃない。重要なのは『カール・ゴッチ』のほうだ。人を感動させる要素は、カール・ゴッチがトレーニングした新日本プロレスの人たちからUWFが生み出されたということだ。この文脈においてイスタズはどうだっていいだろう? 我々は、カール・ゴッチを通して神話を見たのだ」
──そして今回は両国国技館で行われる。決着はKOかレフェリーストップ、関節技等によるタップのみ。それにしてもロープ無しのプロレスというのは、難しそうです。
「みんなにできるものじゃない。自分がプロレスラーとしてアントニオ猪木やビル・ロビンソン、カール・ゴッチに指導を受け、総合格闘家としてはエリック・パーソンやマット・ヒュームに教えられた、ピュアな戦いに立ち戻ったものを見せたい。誰でもできることには価値がない。誰でもプロレスラーになれるわけじゃないんだ。だから、これから発表される出場選手にも注目してほしい」