母の病気でアンゴラへ帰国、マラリアで生死を彷徨い、RIZINへ

【写真】アンゴラでの母との写真。青のズボンがケイプだ。マネル・ケイプ提供
──タイではどこで練習を?
「AKAタイランド。練習はハードでした。観光客も多かったですが、ガチのグループは厳しかったです。(マルシオ・セザール)グラシーニャ先生という柔術もトップレベルの人と一緒でした。ムエタイの国にいながら、トップレベルの柔術も学べる環境でした」
──タイでムエタイの試合に出たことは?
「試合はありませんでしたが、ムエタイの練習は非常に多くこなしました。何百戦も経験があるような連中とスパーリングをしていました。メインのトレーナーは、ジョルジュ・サンピエールのトレーナーも務めていたL(ラムソンクラム・チューワッタナ)という人物で、非常に経験豊富でした。そこで私のムエタイの基礎が作られました」
──その期間、MMAの試合は?
「タイでは一度もしていません。その時期はもう日本のRIZINで戦っていましたから。タイで練習して、日本で戦うという生活でした。当時はキックボクシングの練習もしていましたが、タイに行ってからはよりムエタイ(ヒザ蹴りなど)に傾倒しました。でもパンチと蹴りの強いベースは持っていました」
──その頃はRIZINで活躍していた時期でしたね。タイは生活の質もいい。
「練習もハードですよ。非常に良いです。プラテスも6年くらい住んでいましたよね。彼とはあそこで会いました」
──UFC6勝1敗で、いまはファイティングナーズのカルロス・プラテスですね。
「ええ。夜遊びの場所(バラダ)で会ったり、練習しているのを見たりしました。彼は当時から夜遊び好きでしたが(笑)、それと同時に当時から『あいつは強い』という評判でした。ムエタイの試合を週に一度、40ユーロ(約6000円)くらいのためにこなしていました。本当にタフです。私は“怪我でもしたらどうするんだ、自分にはそんなの無理だ”と思って見ていました。とにかく試合数が多く、彼は本当にタフでした。一度パトン(プーケット)で彼の試合を見たことがありますが、凄まじかったです。彼がMMAに転向してUFCに来た時、私は自分のトレーナーに『あいつは来るぞ、タフだしノックアウトできる』と言いました。周囲はまだ半信半疑でしたが、私は彼が拳を当てれば試合は終わると確信していました」
──彼は以前もMMAをやっていて、タイでキックボクシングに集中した後、またMMAに戻ったんですよね。あなたの場合は、17歳でMMAデビューした時、もちろんその前に少し柔術の経験はありましたが、キックボクシングやボクシングのキャリアはなかったんですか?
「ボクシングの試合はいくつかしていましたが、公式な記録として数えられるようなものではありませんでした。主に柔術、ボクシング、そして多くのアマチュアMMAをこなしました。13歳や14歳の頃からです」
──13、14歳でアマチュアMMAを?
「はい。レガースとヘッドギアをつけてね。主催者の息子のジョゼ・フィリョという子がいたんですが、彼らはトーナメント表に私の名前(当時は55kg級)があると、私から逃げ回っていました。私は当時から“マレント(生意気)”な態度で会場に入っていましたから(笑)。“お前ら、覚悟しとけよ”って。主催者の息子と当たった時は、ボコボコにして一本勝ちしました。彼らにとっては悪夢だったでしょう。それ以来、次の大会に行くと、主催者が息子を別のブロック(グレリャ)に移動させるようになりました。でも私はいつも彼を見つけ出して追いかけました(笑)。彼を61kg級に上げたら、私も『2階級で出たい』と言って。1日に3試合も4試合もこなせたんです。私の師匠──カピートと呼んでいましたが、師匠は『おい、お前の階級には2人しかいないぞ。2試合じゃ物足りないだろ、上の階級にも出ろ』と言うので、『分かりました』と。57kg級で2試合して休んで、それから『僕の選手を60kg級にも出したい』と言うと、相手は『クソ、あいつがまた来たぞ』って。主催者の息子がどこにいても、私は神に誓って彼を見つけ出しました」
──その子に何か恨みでも?(笑)
「恨みはありませんよ。優勝すると主催者がレガースやグローブの道具をくれるんです。でも、彼の息子をボコボコにした時は、道具をもらえずに帰されたこともありました。その後、私は年上の連中と戦わされるようになりました」
──失礼を承知で言いますが、当時ポルトガルは世界的にMMAの強豪国というイメージはありませんでした。
「いえ、今のアマチュアMMAはポルトガルでも非常に強いですよ。K-1(キック)もね」
──17歳でプロデビューし、いつタイに移ったんですか?
「ヨーロッパで10試合ほどプロ戦をこなしました。フランスやスペインでも試合をして、若くして勝っていました。その後、アンゴラへ行きました。母が病気で、親族から連絡があったんです。それが私にとって初めてのアンゴラへの帰還でした。すでにMMAで良い経験を積んでいた時期です。
親族から『アンゴラに来い、お母さんに会ってやってくれ』と言われました。母は、父がアンゴラ大統領関連の仕事でしばらく滞在していたため、一人でポルトガルにいるのを避けて父のもとへ行っていたんです。私と3人の兄弟はポルトガルに取り残された形でした。そこで私はアンゴラへ飛びました。確か2015年か2016年から2年間ほど滞在しました」
──当時のアンゴラにはハイレベルな練習環境はなかったでしょう?
「ありませんでした。柔術だけは強かったです。アンゴラは柔術が非常に盛んです。私は母とは非常に強い絆がありましたから母に会うために行きましたが、そこでMMAを普及させようとしている連中に会いました。チャンスだと思いました。私はすでにポルトガルで1つ、スペインで2つ、合計3つのベルトを持っていました。MMAを普及させようと練習を始めましたが、現地の状況は“プレカリア”過酷でした。誰もが1日2回の練習をできるわけではありません。アンゴラでMMAアスリートになるのは、条件面で非常に難しい。食事などの基本的なレベルの話です。練習道具を輸入するのも非常に高い。ルアンダ(首都)は世界で最も物価の高い都市の一つですから。今はプロ選手も数人いますが、柔術競技者の数に比べれば極めて少ないです。だから状況は劣悪でした。私がRIZINと契約した時、私はポルトガルからではなくアンゴラから参戦したんです」
──それはすごい。
「練習相手は、イギリスから帰国した従兄弟のケニーだけでした。彼は英国でレスリングをやっていて非常に強かったですが、MMAのプロ経験はありませんでした。でもレスリングに関しては最高だったので、打撃のスパーリング相手になってもらいました。彼が唯一のサポートでした。あと筋肉トレーニングを助けてくれるウィルソンという友人がいました。ケニーは私より重くて背が低かったですが、レスリングができた。そこで練習を始めましたが、私はアンゴラでマラリアにかかってしまったんです。私の体質が現地に慣れていなくて、蚊に刺されてパルディズモ(マラリアの一種)になり、14kgも体重が落ちて死にかけました。幻覚を見るほどひどい状態でした」
──幻覚まで……。
「独り言を言っていました。それがRIZINと契約する直前のことです。私のMMAキャリアはここで終わったと思いました」
──ポルトガルに戻ったんですか?
「いいえ、母の病気(心臓疾患)があったので残りました。兄弟たちもアンゴラに来て私を支えてくれました。医師からは『マラリアでこの状態は死に至るケースだ』と言われ、目も黄色くなっていました。でも、私は回復しました」
──回復までどれくらいかかりましたか?
「数カ月かかりました。体重を戻し、再び走れるようになるまで。最初は足が鉛のように重くて走ることさえできませんでした。体が慣れるまで時間がかかり、当時はガリガリに痩せてしまいました」
※本誌の取材では、アンゴラに戻っていた時期について「よく一人で練習してたよ。ただアンゴラではボクシングをやっている人は多く、僕の弟も大きなボクシングチームに所属している。父のチームもある。だから午前中は僕もボクシングの練習ができた。午後にはチームで柔術をやる。MMAの練習もしたかったんだけど、パートナーがー人しかいなかった。しかもその彼も練習に来たり来なかったり。真剣に格闘技に打ち込んでいる人じゃなかったから。しかもアンゴラではよく停電が起きて、5時間とか7時間、灯りがないままだったりもするんだよ。他に行く場所もないから暗い中で練習したり、あとは車を持ってきてそのライトを照らして練習したりした」(『ゴング格闘技』2020年3月号)
──その間、2年半、公式戦を行えませんでした。
「そんな時、フランスの友人からメッセージが届きました。『日本のRIZINが、ヨーロッパや世界中から、少なくとも2つか3つのベルトを持っている選手を探している。61kg(バンタム)級のトーナメントのためだ』と」(※後篇に続く)



