父は搾取されていた。サッカーで活躍後、ボクシングと柔術を活かしてMMAに
──サッカーの話を何度かしましたね。サッカーが最初のスポーツだった?
「ボクシングは2歳からでしたが、真剣に取り組んだのはサッカーでした。ポルトガル北部の選抜チームでプレーし、地域の最優秀選手に何度も選ばれました。ポジションは左ウイング、右ウイング。速くてフェイントが得意でしたが、パスを出さない“フォミーニャ(独りよがり)”な選手でした(笑)。ゴールは量産しましたが、パスはしませんでした」
──ポルトガル北部の選抜ですか。
「私はポルトガルのナショナルチーム(代表)に呼ばれました。でもプレーしませんでした。父が、私をポルトガル人に帰化させてくれなかったからです。ポルトガルのパスポートが必要でしたが、父は私に『アンゴラ代表でプレーしなければならない』と言いました。父は非常に強いナショナリストでした。父は大統領とも友人でしたから。もし父がいなければ、私は今頃サッカーをしていたかもしれません。父のせいでサッカーを離れ、格闘技に専念し始めました。父は『格闘技では食っていけない。未来はない』と言っていました」
──お父さんは格闘家だったのに?
「父のケースは複雑なんです。父は当時、マネージャーたちに経済的に搾取されていました。トレーナーたちは家や車を持っているのに、父が手に入れた家は大統領や知事からの贈り物でした。試合の金で買ったものではありませんでした。父は街の人に愛された謙虚な人でしたが、後になって分かったのは、彼が受け取るはずの多額の金が周囲の人間に中抜きされていたということです。だから父はスポーツ(格闘技)に対してそういう認識を持っていました。1万、2万という金をもらって、それを大金だと思い込んでしまう。アフリカから来た、飢えを経験したような若者にとっては大金に見えますが、人生にはパンと水以上のものが必要だと気づいていなかった。だから父を責めるつもりはありません。
とにかく、父のサポートがなかったのでサッカーを辞めました。サッカーの時はスパイクを買ってくれたりと応援してくれましたが。彼は私がアンゴラ代表でサッカーをすることを望んでいましたが、私にはポルトなどのクラブ、さらにはイングランドからもオファーがありました。でも私はポルトガルにいたかったし、何より“ファイト”が好きだったんです。私が3ゴール決めた時、父はロビーニョやロナウジーニョが履いていたような黄色いスパイクを買ってくれました。
あんなに投資してくれていたのに、私が柔術を始めたら『そんなのはディスコの用心棒になるためのスポーツだ』と言いました。父の友人にはボクサーがいて、彼らはディスコのオーナーや用心棒をしていました。私は14、15歳でディスコに出入りして、用心棒の真似事をして金を稼いでいました。プロテインを買うために。父はそれを見て激怒していました。でもあるトーナメントで優勝した時、『もういい、格闘技だけに集中しよう』と決めたんです」
──サッカーは本当に上手かったようですね。
「本当に上手かった。本当にね。私の街の多くの人にとっても、今の私の戦いぶりは驚きですよ。『おい、あの子はサッカーでも十分やっていけたはず』って言われます。『あの子はボールの扱いが本当に上手かったんだ』と」
──サッカーを完全に辞めたのは何歳の時ですか?
「確か15か16歳だったと思います。16歳か、15歳かそのくらいです。漠然としていますが、そのあたりです」
──お父さんは怒ったんじゃないですか?
「ええ、発狂していましたね。でも私の母は……母によく聞かれますが、母は苦労していました。母は本当に大変だったんです。私のプロ初戦は17歳の時でした。アマチュアMMAでたくさんの試合をこなした後です。プロ初戦で勝った時の報酬は200ユーロ(約3万円強)でした。実は、その試合に出るために、母にナイキのエアフォース1(白)を買ってくれと頼んだんです。当時は80ユーロくらいしました。『お母さん、試合の週に格好よく会場に入りたいから、80ユーロのナイキを買ってくれないか?』って。すると母は『そんなの買ったら、他の兄弟たちは何を着て何を履けばいいの?』と言いました。私たちは4人兄弟でした。今は5人ですが、当時は同じ父母の兄弟が4人。母はこう言いました。『フェイラ(市場)に行けば10ユーロで靴が買えるわ。4足買っても40ユーロよ。あんたと兄弟たちの分を買ってもまだ40ユーロ余る。それをあんたたちの学校のおやつ代にできるのよ』って。私は『嫌だ、市場の靴なんて履かない。そんなの履くくらいなら試合なんて出ない』と言いました。
結局、私は試合に出て、最高のパフォーマンスを見せました。その試合の週はどうしたかって? 親友のパウロがいつも試合についてきてくれるんですが、彼が自分のスニーカーを貸してくれたんです。少しサイズが大きかったけれど、それを履いて行きました。試合に勝つと、主催者がさらに200ユーロ上乗せしてくれて、合計440ユーロになりました。家に帰って『お母さん、これ200ユーロだよ』と渡しました。残りは自分の分とトレーナーの分にしました。母は驚いて『どこからそのお金を出したの?』と。母は私が戦っているのは知っていましたが、格闘技でお金が稼げるとは知らなかったんです。そんな話をしたことがありませんでしたから。私が『戦って勝ったんだよ』と言うと、母は『本当に? 格闘技で?』と聞き返しました。それ以来、母は私の食事を作ってくれるようになり、何が必要か聞いてくれるようになり、帰宅時間も自由になりました」
──多くのファイターは、親のサポートがなかったという人も多いですから。ただ、ここで気になるのは、父親はあなたにサッカー選手になってほしくて応援もしてくれて、君自身も才能があった。それなのに「もうサッカーには集中しない」と決めたことについて、後悔した瞬間はありませんでしたか?「ああ、親父の言う通りだった。頭を殴られるより(サッカーの方が)楽だった」と思うような。
「いえ、殴られるのが嫌だとかそういうことではありません。私が経験してきた苦労や欠乏を考えると……今の人たちは、SNSの写真や時計のような華やかな部分しか見ていません。いつもこうだったと思われがちですが、実際は極めて厳しく、残酷なものでした。道衣(キモノ)やグローブを買う金さえない時期もありました。本当に何もなかった。スポンサーの話なんて、当時はあり得ませんでした。一緒に練習している仲間が『おい、助けてやるよ』と言ってくれるような、友人たちのサポートだけでした。
家から遠い場所までバスを乗り継いで通い……本当に戦いであり、犠牲でした。これができるのは、この競技を愛している人間だけです。好きでもない人間は、途中で脱落します。減量などの過酷な要因もありますしね。私は自分のやっていることを愛しています。そうでなければ成功していません。ただ、あまりに状況がひどくて“あっち(サッカー)の道の方が楽だったかもしれない”と思った瞬間は確かにありました」
──経済的な安定を得るまでには時間がかかりましたか?
「いえ、私は常に“ビジネス”をする人間だったので。あちこちで商売をしていましたし、格闘技界以外の人たちと繋がる方法も知っていました。だから自分の金をどこに置けば利益を生むかを知っていました。それが長期間の安定と支えになりました。今はもっと楽ですが、2つのスポーツを比較することはできません。ただ、今は比較できるかもしれません。今の私がこの競技(MMA)で得ているものは、あちら(サッカー)で得られたかもしれないものと同等だと言えます。大きな差はありません」
──生活の質の話ですね。
「そう、生き方の問題です。私は君が買うようなランボルギーニを10台買うつもりはありませんが、金融リテラシーのある人間なら1台は買います。私は50万ドルあれば、ランボルギーニでもフェラーリでも買えます。賢くローンを組めば、君が持っているものを私も持てる。資産管理の問題です。10(稼ぐ人)ができることは、私もすべてできます。豪華なレストランで食事をし、良い服を着る。ただし、不必要な贅沢──ヘリコプターやヨットを買うなど──には手を出しません。そこから転落が始まるんです。何百万ドルも稼ぎながら、最後は路上生活になるアスリートはたくさんいます。どんなスポーツでもあります。数年で使い果たす。お金は“無礼”を許しません。ただ燃やすだけで入ってこなくなれば、いつか支払いのツケが回ってきます。だから今は恵まれた時期ですが、人生を楽しむと同時に、貯蓄や投資の方法を知っておくべきです。投資とは何か? 私は自分自身に投資しています。家族や生活の質に投資し、同時に蓄えています」



