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インタビュー

【UFC】マネル・ケイプがポルトガル語で語ったこと(後篇)「RIZINで“なんだよ”Tシャツが3千枚完売」「堀口恭司戦後にATTに誘われたけど」「朝倉海との2試合は」「最高のファイトIQは、俺」

2026/01/10 17:01
【UFC】マネル・ケイプがポルトガル語で語ったこと(後篇)「RIZINで“なんだよ”Tシャツが3千枚完売」「堀口恭司戦後にATTに誘われたけど」「朝倉海との2試合は」「最高のファイトIQは、俺」

(C)Manel Kape

 現UFC世界フライ級2位のマネル・ケイプ(アンゴラ/ポルトガル)が年明け、ポルトガル語のポッドキャストに出演。前王者アレッシャンドリ・パントージャ(ブラジル)の骨折や靭帯損傷が無かったことを受けて、「パントージャ対ジョシュア・ヴァンの勝者を待つだけ」と、ダイレクトリマッチの勝者に挑戦する構えであることを語った。

 また、同番組では、アンゴラのルアンダ生まれで、幼少時に家族と共にポルトガルに移住し、ボクサーだった父の影響でボクシングを始め、ブラジリアン柔術も学び、MMAへと移行した“スターボーイ”の半生が語られている。本誌取材のインタビューで補足し、後篇では、RIZIN初参戦以降の“知られざる”マネル・ケイプの姿を紹介したい(※前篇からの続き)。

堀口恭司に敗れ、ATTからの誘いを固辞

──アンゴラに帰国し、マラリアにかかり生死の間を彷徨い、その間2年半、公式戦を行えませんでした。

「そんな時、フランスの友人からメッセージが届きました。『日本のRIZINが、ヨーロッパや世界中から、少なくとも2つか3つのベルトを持っている選手を探している。61kg(バンタム)級のトーナメントのためだ』と」

──2017年の「RIZINバンタム級トーナメント」への出場オファーですね。

「そこから従兄弟との練習に火がつきました。練習相手はたった一人。そして日本へ行き、初戦で勝ちました(※2017年10月「RIZINバンタム級トーナメント1回戦」で山本アーセンを1R TKO)。何の練習環境も設備もない状態から、たった一人の練習相手と勝ち上がったんです」

※本誌の取材では、当時の練習環境について「アンゴラでは夜遅くまで練習すること すら叶わなかった。暗くなったら盗賊に襲 われるかもしれないんだから。そいつらは 銃を持っている。夜間に強盗被害に遭うと か、撃ち殺されるなんて日常茶飯事だ。楽な環境ではなかった。でもね、本当に何かを成し遂げたいと強く願うなら、そのために努力を重ねるしかない。そして僕の場合、試合に勝ってお金を稼げば、自分の練習環境自体を良くすることもできるはずだと思っていた。だから道場に灯りが無いなんて関係なかった。不平を言わずにベストを尽くすだけだったんだ。不平を言うのはルーザー(負け犬)なんだよ。『自分にはあれもない、これもない』ってね。僕だって満足に食事ができず、一日一食で空腹のまま練習したこともあった。でも文句を言わずにトレーニングに打ち込んだ。結果を出せば僕や兄弟の環境を改善できると言じてね。このハードワークを貫く意志の力こそ、僕が成功できた理由だと思っているよ。ハードな練習をしていると分かっているから、試合に向けてプレッシャーも感じないし、対戦相手のことも何とも思わないんだ。氷のように冷たい感情しかないんだよ」(『ゴング格闘技』2020年3月号

──RIZINと契約し、初戦に勝った。そのお金でタイへ行ったんですか?

「初戦に勝ち、2戦目(イアン・マッコールを1R TKO)も勝ちました。そして準決勝で堀口(恭司)と当たりました。3Rまで戦いましたが、負けました。その時、(堀口のセコンドだった)マイク・ブラウンが私に声をかけてくれたんです。彼は私が何度も日本に来ているのを見て、顔を覚えてくれていました。日本のファンも初戦から私を気に入ってくれて、すぐに契約を提示してくれました。私はマイク・ブラウンに説明しました。『今はアンゴラで、たった一人の練習相手と犠牲を払って練習しているんだ』と。すると彼は『アメリカン・トップチーム(ATT)に来て練習しないか? 君を別のレベルに引き上げてやる。君がたった一人の相手と練習しているのは見れば分かる』と言ってくれました。でも私は心の中でこう思いました。『いや、俺はさっき負けた相手(堀口)よりも優れているはずだ。環境がなかっただけで、あいつらの方がコンディションが良かっただけだ』と。だから私はATTには行きませんでした」

──対戦した堀口の練習仲間(パートナー)にはなりたくなかった?

「ええ。私はRIZINでもう一度彼と戦って、捕まえてやりたかったんです。試合で得た賞金で、もっと良い練習環境を整えられるようになりました。しかしその時期、アンゴラで母が亡くなりました。母が亡くなり、私は休暇でタイへ行きました。当時の私はタイに格闘技の文化があることさえ知りませんでした」

──ATT行きを断った後に、タイへ行ったんですね。当時、ハイレベルなトレーニングができる場所のあてはなかったんですか?

「いえ、ありませんでした。本当は日本に残るつもりだったんです。すでにいくつかコネクションがありましたし、叔父が大使館にいたので日本に滞在することも可能でした。でも、休暇でタイに行ったんです。そこで“クソッ、ここにはMMAのジムがたくさんあるし、選択肢も設備も素晴らしいじゃないか”と気づきました。タイで最初の練習をした時、連中に『おい、こいつはいいぞ。ここにいろよ』と言われました。マイク・スウィックやグラシーニャと話して、彼らを代表する選手として留まる契約を提示されました。そこで最高のサポートを受けることができ、私はそこに残ることにしました」

──それでみんなをなぎ倒していったわけですね。

「ええ。そこで非常に強固なサポート体制を手に入れました」


(C)RIZIN FF

──あなたが最初に本当に、世界レベルでタフになったのはどこだったと思いますか?

「タイです。タイで最高の環境を得ました。数試合した後、あそこでアパートを買い、バイクを買い、自分自身と自分のキャリアに投資し続けました。そしてありがたいことに、一人の友人に会いました。友人というか、今は私の師(グル)である“トゥバロン(サメ)”ことアレックスです。彼はブラジル人、リオ出身ですがバイーアに住んでいました。彼はグラシーニャの友人で、よくタイに練習や柔術をしに来ていました。彼はアマウリ・ビテッチの親友で、カーソン・グレイシーの流派の出身です。オズワルド(・アウベス)先生の系統ですね。トゥバロンは黒帯で、私を助けてくれました。彼は日本にも長く住んでいて、商売に非常に長けた人でした。彼の子供たちは日本人です。私が日本(RIZIN)で戦っているのを知って、『お前の家に行くよ、そこに泊まるよ』という感じで、非常に良い友情が芽生えました。彼が日本を離れてタイに来る時は、今でも私のアパートに泊まりますし、私が日本に行く時は彼のところに泊まります。最初は日本語も少し教えてもらいました。彼は格闘技以外のビジネスも教えてくれて、ブラジルへの投資も始めました。あまり知られていませんが、彼を通じて私はブラジルにかなり投資をしています。そうやって格闘技以外の基盤を築き始め、同時に格闘技でも自分のチームと構造を作り上げました」

──そこが分岐点だったんですね。海外では私だけでなく、私の世代の誰もがRIZINでのあなたを知り始めた時期です。

「そうです。あそこでかき回し始めました。RIZINの連中にも言ったんですよ。『俺には環境さえあればいい。そうすればここで全勝してやる。誰も俺には勝てない』って。ただ、堀口恭司に負けた時のあの悔しさは残っていました。UFCにいた彼に勝てたはずだという苦い思いがね。日本の人たちは私のことをとても気に入ってくれて、その後、良い契約を結んでくれました。朝倉海とは2回戦いました」

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