現UFC世界フライ級2位のマネル・ケイプ(アンゴラ/ポルトガル)が年明け、ポルトガル語のポッドキャストに出演。前王者アレッシャンドリ・パントージャ(ブラジル)の骨折や靭帯損傷が無かったことを受けて、「パントージャ対ジョシュア・ヴァンの勝者を待つだけ」と、ダイレクトリマッチの勝者に挑戦する構えであることを語った。
また、同番組では、アンゴラのルアンダ生まれで、幼少時に家族と共にポルトガルに移住し、ボクサーだった父の影響でボクシングを始め、ブラジリアン柔術も学び、MMAへと移行した“スターボーイ”の半生が語られている。本誌取材のインタビューで補足し、“知られざる”マネル・ケイプの姿を紹介したい。
父はいつもこう言っていた。『お前は黒人なんだ。家を出る時はしっかり身なりを整えておけ』と
(C)Zuffa LLC/UFC
──あけましておめでとうございます。こうしたポッドキャストも大丈夫ですか。
「はい。大丈夫です。私はお喋りが得意ですから」
──そうですね、知っています(笑)。まず最初に目に留まったのは、そのキャップとメガネです。あなたはファッションがお好きですよね。いつもそこに投資していますよね?
「大好きです。そういう風に育てられました。興味深いことに、それは母の影響なんです。子供の頃、教会に行く時はいつも“fato(スーツ)”を着ていました。ファトですね。ああ、ここでは“terno(テルノ)”と言い換えないといけませんね。いつもスーツを着ていました。たまたまポルトガルに仕立て屋がいて、母はいつも私たちをその仕立て屋に連れて行き、スーツのサイズを測らせていました。本当に小さい頃から、6歳とかそのくらいの頃からです」
──もう服を着るのが好きな状態で育ったんですね。というか、当時はあまり好きではなかった?
「好きではありませんでした。外で友達がサッカーをしているのが見えるのに、自分はスーツを着ているんですから。彼らは私をからかいました。『おい、聖書を持って教会に行くぞ』って。だから私はいつも、友達がボールを蹴っていない道を選んで隠れるようにして行っていました。でもファッションへの好みはずっとありました。学校へ行く時もいつも格好よく決めていました。時々、もし母が服を洗濯していなかったら、私は学校に行きませんでした。服が整っていなかったり、洗濯されていなかったりしたら、学校に行くのを拒否していました」
──そうなんですか。
「そして、自分たちのスーツを作るアトリエがありました」
──今、その関係はどうなっていますか? 今でも専属のスーツを作ってくれる人はいますか?
「います、常にいます。すでにいくつかのスーツブランドや仕立て屋と仕事をしました。スタイリッシュな服、どこかへ出かける時に着るような服ですね。常に自分が好きなもの、探求しているものを求めています。そして試合の週、それは常に目に見える形になりますよね」
──コナー・マクレガー以降、それが非常に目立つようになりましたよね。記者会見などでファイターたちが身なりを整える。君もその一人です。
「いえ、マクレガーが来るずっと、ずっと前からスーツを着ていたファイターはいましたよ。UFCでもずっと前からです。ただ、彼が来てからより強調されるようになった。彼が喋るから、人々がより注目するようになったんです。でも私はもっともっと前にスーツを着ているファイターたちを見てきました」
──もちろんですが、彼以降に増えました。それが言いたいことです。
「増えたというよりは、人々がそのディテールにより注意を払うようになったんです。それと、日本では常にスーツを着る文化がありました」
──それは本当ですね。PRIDEの記者会見もそうです。
「常にスーツでした。ブラジル人だけがTシャツでしたが(笑)。でも常にスーツでした。ボクシングでも常にスーツでした。そして今日、個人的に私は自分のスタイルを採用し、自分が気分良くなれるものに従っています。常にオーセンティック(自分らしく)でありたいと思っています。注目が集まったことで、人々が詳細を詳しく見るようになったのは普通のことです」
──あなたにとって、それは「ゲーム(勝負)」の一部だと思いますか? 君は子供の頃からそれが好きだと言いましたが、今はUFCというプラットフォームにいる公人です。今はParamountも関わっています。常にプレゼン可能な状態でいることは理にかなっていますよね?
「はい、ゲームの一部です。しかし、それが自分を害するようなものであってはいけません。ゲームの一部ではありますが。そして私の父はいつもこう言っていました。『お前は黒人なんだ。家を出る時はしっかり身なりを整えておけ』と。だからファイターとして、イメージに投資し、自分を良く見せるべきだと言っています。単なる“格闘家の宣伝”としてではなく。格闘技界以外にも、格闘家を見ている目はありますから。“荒くれ者”のように見られないため、また、このスポーツが経済的なメリットをもたらさないスポーツだと思われないためです。もしみすぼらしい格好をしていたら、それはこのスポーツの選手が十分に稼いでいないことを示すことになります。他のスポーツと比べて。それはよく観察されています。だから、良い服を買う余裕さえないと思われないように。
もっと噛み砕いて言えば、人がきちんとした格好をしていれば、敬意の念さえ抱かせます。『見ろ、MMAファイターだ。あんなに格好いいぞ』と。それがまた別の視線を生み、別のチャンスを生み、報酬を生むかもしれません。そして『自分を害してはいけない』と言ったのは、限界を知り、どこで買うべきかを知るべきだという意味です。ファッションの世界に入り込もうとして、ファッションとは高い服のことだけだと思い込んでしまうことがあります。安い服もあります。安い服をどう組み合わせるかを知れば、ロゴだらけのダサい高い服よりずっとよく馴染みます」
──サンパウロには「3月25日通り(安売りで有名な通り)」があります。
「でも私が言いたいのは、『自分を害するようなゲームに入ってはいけない』ということです。分かりますか? その自覚がない多くの人が、イメージに投資しすぎて自滅してしまうことがあります」
アイデンティティに関しては、アンゴラ人だと認識している
(C)Manel Kape
──完璧です。子供の頃に教会に行っていたと言いましたが、それはアンゴラの話ですか? それともポルトガルの話?
「ポルトガルです。失礼、アンゴラで生まれて、2歳になる時にポルトガルへ行きました。2歳になる頃です」
──アンゴラの記憶は全くないんですね? ポルトガルで育った。
「アンゴラの記憶は、正直に言って、漠然としたものは時々浮かびますが、はっきりしたものではありません」
──母も父もアンゴラ人ですよね?
「はい、両親ともアンゴラ人です」
──ポルトガルのどの街へ?
「ポルトです。ポルトのリオ・ティントで育ちました」
──なるほど。そうなると、そのせいでアンゴラよりもポルトガルにアイデンティティを感じますか?
「良い質問ですね。アンゴラで生まれてすぐに離れましたが、家の中での文化は常にアフリカ、アンゴラのものでした。強い文化がありました。ヨーロッパの文化ではありませんでした。私の目から見ると、ヨーロッパの文化は年上に対して少し敬意が足りないところがあります。私の友人が両親に対して話すやり方を見てきましたが、私は自分の父や母に対して、対等な口調で話すなんて夢にも思いませんでした。だから私は家の中では常にアンゴラの教育を受けてきました。それは刷り込まれていました。『私たちはアフリカを出たが、アフリカは私たちの中から出ていない』という感じです。常に敬意を払う文化、厳格な教育、フォーマルで倫理観の強い教育でした。アイデンティティに関しては、私は自分をアンゴラ人だと認識しています。常にそうです。しかしもちろん、私の受けた教育がポルトガルのものであることは否定できません」
──あなたのアクセント(訛り)はアンゴラですか、ポルトガルですか?
「ポルトガルです。でもアンゴラに行くと、多くの人が私のアクセントのせいで、気取っているとか鼻持ちならない奴だと思われます。アンゴラの訛りとポルトガルの訛りは大きく違いますから『調子はどうだ? 元気か?』みたいな」
──ブラジル人っぽいですね。
「ブラジル人というよりは……例えば君が私より年上だとしたら、こう呼びます。『どうだい、モコタ(年長者への敬称)元気かい? 調子いいかい、モコタ? 今日はもう飯は食ったか? ほらな』と、全然違います。私が自分の本来のアクセント(アンゴラ風)で話すと、彼らもようやく納得してくれます」
──さきほどお父さんの言葉を引用しましたね。「お前は黒人だが、だからこそ身なりを整える必要がある」と。現在ポルトガルには多くのブラジル人が住んでいます。私は行ったことがありませんが、ブラジル人があまり歓迎されていないという話も聞きます。ポルトガルのアンゴラ人コミュニティの場合はどうでしたか? アンゴラ人移民への扱いは?
「私は実質的にあそこの人間ですからね。他の人を受け入れる側の人間です。人種差別を感じたと言って嘘をつくつもりはありません。私はあそこでは“マランドロ(ポルトガル語で「やんちゃ者」)”でしたから。特に学校などでは」
──ブラジル人に意地悪をしていましたか?
「いえ、していません。たまたま学校にはブラジル人の友達がたくさんいました。私はブラジル文化が大好きだったんです。当時はサッカーをしていましたし、母と一緒にノヴェーラ(ドラマ)も見ていました。だから幼い頃、ブラジル人と会うのは良いことでした。ブラジル人の友達がいるのは」
──ポルトガル人はブラジルの文化(ドラマや食事など)をたくさん消費しますよね。
「ポルトガルに住んでいるアフリカ人の方がより消費しますね」
──なるほど。ポルトガル人自身はあまり?
「ポルトガル人はポルトガルのものをより消費します」
──ポルトガルにアフリカ人は多いと。あなたはそこでブラジル人やアフリカ人とより繋がりを持って育ったんですか?
「いいえ、ポルトガル人と繋がって育ちました。非常に強く繋がっていました。しかし私は自分のコミュニティから出て、他のコミュニティへ行く子供でした。時々パゴーヂ(サンバから派生したブラジルのポピュラー音楽)のバーがあれば、そこへ入っていきました。パゴーヂのバーに行ったり、色々なところへ行きました。アフリカ系のパーティーやブラジル系のパーティーがあれば、その中へ入って何かを吸収していました」
──パゴーヂのバンドを何か一つ挙げてもらえますか。
「バンド……So Pra Contrariar(ソ・プラ・コントラリアール))。それと、ブラジル代表の曲を歌っていたあのバンドも好きです」
──ZECA PAGODINHO(ゼカ・パゴジーニョ)?
「いや、ゼ・パゴジーニョじゃなくて……(Grupo)Revelacaoだ。曲は『O dia vai chegar(その日は来る)』。最高です。非常にスピリチュアルでポジティブで、勇気づけられる曲です」
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父はソウル五輪ボクシング アンゴラ代表だった
(C)Zuffa LLC/UFC
──良いですね。ポルトガルで育ったあなたですが、お父さんはボクサーだったんですよね? ソウルオリンピックにも出場した。
「1988年のソウル五輪です。ロイ・ジョーンズ・ジュニアが出ていた時です」
──ボクサーの父親から直接、格闘技の影響を受けて育ったんですか?
「はい、そうです。家で見ていたのはそれでした」
──父親が戦うのを見て「これが自分の人生にしたいものだ」と?
「はい。最も満足感があったのは、学校へ行った時です。父の試合がポルトガルの大きなテレビで流れていて、勝った翌日に学校へ行くと『おい、お前の親父が勝ったぞ! 戦うのを見たぞ!』と言われるんです。私は父にいつも『ジムが終わったら、学校まで迎えに来てよ』と言っていました。父は『いや、ダメだ』と言いながら、サプライズで来てくれるんです。すると友達が来てサインをねだる。『おい、お前の親父が来たぞ『』って。私は『言わなかったっけ? 親父が来てるんだ』って。最高の瞬間でした」
──お父さんはアンゴラ代表だったんですか?
「アンゴラ代表です。当時ポルトガルも代表していましたが、ボクシングは代表チーム制なので、流れる国歌は常にアンゴラのものでした。しかし彼はポルトの最大のクラブである『ボアヴィスタ』に所属していました。街では非常に有名な大きなクラブです。ボアヴィスタの通りに父の名前が書かれたり、写真が飾られたりするほどでした」
──お父さんの名前は?
「マヌエル・ゴメスです。そして彼は街や国の歴史に残る印象的な試合もしました。『アリアドス』で戦ったんです。アリアドスというのは、コパカバーナにリングを作るような、街のど真ん中、中心地のことです。そこで試合をして勝ちました。街の歴史の節目となる最初のイベントでした」
※本誌の取材では、「父はプロになる前にポルトガルのアマチュア大会に参加し、ポルトガルのベストファイタ一達を倒して優勝したんだ。そこでポルトガルが父を招待し、住むところと仕事を用意してくれた。それで父は2年くらいかな、ポルトガルに一人で住んで、家族が移住できる環境を整えてから僕らを呼んだんだよ」と語っている。(『ゴング格闘技』2020年3月号)
──興味深いですね。子供の頃にそんな記憶があるのは。今はあなたが父親の立場です。娘さんはまだ小さいですが、彼女はパパの仕事を知っていますか?
「知っています。彼女は友達の家に行って、母親と一緒に試合を見ています。私が勝つと、いつも彼女に最初に電話をします。彼女は『マネル、勝ったね! 見たよ、あなたが勝つのを』と言います。今の子供は昔よりもずっと進んでいて、感受性が豊かで、色々なものと繋がっています。私の娘は3歳ですが、想像もつかないようなことをします。体操、水泳、乗馬、今はスキーもしています。学校で表彰式があったのですが、3歳ですでに読み書きができるということで、数学と語学の証明書をもらいました」
──彼女はアメリカで生まれたんですか?
「はい、ここで生まれました。彼女はポルトガル語、英語、そしてロシア語を話します」
──ポルトガル語、英語、ロシア語も? なぜロシア語を?
「母親がロシア人なんです」
──それは知りませんでした。
「私も話せますよ」
──マネル、あなたはロシア語も話すんですか?
「はい、よく話します。話すより理解する方が得意ですが。『ガバリート・パ・ルースキー(ロシア語を話す)』ですね」
ムスリムに改宗、ダゲスタン勢との交流
(C)Manel Kape
──驚きました。子供の頃、スーツを着て教会に行っていたと言いましたよね。今は公言している通り、ムスリム(イスラム教徒)ですよね。いつ改宗したんですか?
「3年前です。ここアメリカで。誰かの影響ではなく、私は勉強するのが好きなんです。なぜなのか、何のためなのかを深く研究します。私はエホバの証人として育ちました。子供の頃からとにかくたくさん、たくさん本を読まなければならない宗教です。他人の家を叩いて回ったり」
──今でもベガスで見かけますよ、エホバの証人やモルモン教の伝道を。
「ここでのことはよく分かりませんが、とにかく私が育った宗教でした。キリスト教です。これはより深く複雑な話になりますが。クリスチャンと言えばイエス・キリストを信じる人たちのことですが、ムスリムもイエスを信じています。メシア(救世主)としてではなく、預言者として。そしてエホバの証人もイエスを神とは信じていません。カトリックがイエスを神とするのとは違います。聖書にはイエスが『崇拝は父(神)に対してのみ行われるべきだ』と言ったことが記されています。こうしたことが、私をイスラム教へと向かわせました。エホバの証人は私が育った環境であり、イスラム教は私が選んだものです。イスラム教こそが私の求めていたものだと心の底で気づいたんです。神は私たちに選択の力を与えてくれました」
──ロシア人やムスリムのファイターたちとの関係も、それに関係していますか? あなたが彼らと良い関係を築いているのをよく見ます。マネージャーのアリ(アブデルアジズ)も彼らの多くを担当していますね。
「はい。ハビブ(ヌルマゴメドフ)とは常に良好な関係です。彼は私の中に何かを見出すと、『これを練習しろ』『これをやれ』と言ってくれます。それだけでなく、私の叔父は将軍であり、ロシアでのアンゴラ大使でもありました。だからロシアという国とは非常に縁があるんです。だからロシア語を学んだんです。色々なことが繋がっています」
──なるほど。さて、あなたは「試合の週はピリピリしているファイターもいる」と言いました。減量中などは特に。
「そうですね。その時に接すると、その選手の別の面が見えることがあります。私は減量中でも落ち着いているように努めています。それが私たちの仕事であり、あなたたちの仕事でもあるからです」
──このラスベガスにはいつ来ましたか? 2020年か2021年? UFCと契約する前ですか?
「UFCと契約した時にラスベガスに住んで。ここに住んでUFC PI(パフォーマンス・インスティテュート)を使うために。私のマネージャーであり兄弟のような存在であるアリ・アブデルアジズもここに住んでいますし、会社も近い。仕事場の近くにいるのは理にかなっています。日本でRIZINで戦っていた時は、タイと日本に住んでいました。ベガスにはよく馴染んでいます。ずっと訪れたい場所でしたから」
──以前ディエゴ・ロペスに「今のUFCで最高のトラッシュトーカーは誰か?」と聞いたら「マネル・ケイプだ」と答えました。あなたは「相手の心に入り込むのが上手い」と。アデサニヤとのやり取り(※23年9月の豪州大会で欠場したカイ・カラフランスと同門のミドル級王者にも舌戦)も面白かったと言っていました。私も同意します。あなたがブランドン・ロイバルに勝った時、トプリアについて聞かれて『日本では俺の方が彼より有名だ』と言いましたよね。
「それは事実ですよ。トラッシュトークではなく事実です」
──事実であれ何であれ、マイクを持てばそれはプロモーション、トラッシュトークに含まれます。その自信はどこから来るのですか?
「子供の頃からです。学校での私を知る人は、私が常に言い返し、先生に対しても常に即座に返答を用意していたことを知っています。それは私がポルト(ポルトガルの都市)の人間だからだと思います。ポルトの人間は非常に舌が鋭い」
──何か理由は?
「ポルトの人間はよく毒づきます。罵ったりもしますが、それは良い意味での文化なんです。愛情深く、温かく迎え入れる人々ですが、文化の一部なんです。特に私が育ったリオ・ティントでは、弱気な態度は見せられませんでした。路上では常に喧嘩がありました。『何見てるんだ?』という挑発から始まります。サッカーをすれば『今のファウルだろ、クソ野郎』となって、『ああ? 文句あるか? 来いよ』となる。私はその中で育ちました。それが私のDNAの一部なんです」
──子供の頃は喧嘩っ早かった?
「学校でも路上でも、非常に。柔術を始めてから止めましたが、それまでは毎日でした」
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父は搾取されていた。サッカーで活躍後、ボクシングと柔術を活かしてMMAに
──サッカーの話を何度かしましたね。サッカーが最初のスポーツだった?
「ボクシングは2歳からでしたが、真剣に取り組んだのはサッカーでした。ポルトガル北部の選抜チームでプレーし、地域の最優秀選手に何度も選ばれました。ポジションは左ウイング、右ウイング。速くてフェイントが得意でしたが、パスを出さない“フォミーニャ(独りよがり)”な選手でした(笑)。ゴールは量産しましたが、パスはしませんでした」
──ポルトガル北部の選抜ですか。
「私はポルトガルのナショナルチーム(代表)に呼ばれました。でもプレーしませんでした。父が、私をポルトガル人に帰化させてくれなかったからです。ポルトガルのパスポートが必要でしたが、父は私に『アンゴラ代表でプレーしなければならない』と言いました。父は非常に強いナショナリストでした。父は大統領とも友人でしたから。もし父がいなければ、私は今頃サッカーをしていたかもしれません。父のせいでサッカーを離れ、格闘技に専念し始めました。父は『格闘技では食っていけない。未来はない』と言っていました」
──お父さんは格闘家だったのに?
「父のケースは複雑なんです。父は当時、マネージャーたちに経済的に搾取されていました。トレーナーたちは家や車を持っているのに、父が手に入れた家は大統領や知事からの贈り物でした。試合の金で買ったものではありませんでした。父は街の人に愛された謙虚な人でしたが、後になって分かったのは、彼が受け取るはずの多額の金が周囲の人間に中抜きされていたということです。だから父はスポーツ(格闘技)に対してそういう認識を持っていました。1万、2万という金をもらって、それを大金だと思い込んでしまう。アフリカから来た、飢えを経験したような若者にとっては大金に見えますが、人生にはパンと水以上のものが必要だと気づいていなかった。だから父を責めるつもりはありません。
とにかく、父のサポートがなかったのでサッカーを辞めました。サッカーの時はスパイクを買ってくれたりと応援してくれましたが。彼は私がアンゴラ代表でサッカーをすることを望んでいましたが、私にはポルトなどのクラブ、さらにはイングランドからもオファーがありました。でも私はポルトガルにいたかったし、何より“ファイト”が好きだったんです。私が3ゴール決めた時、父はロビーニョやロナウジーニョが履いていたような黄色いスパイクを買ってくれました。
あんなに投資してくれていたのに、私が柔術を始めたら『そんなのはディスコの用心棒になるためのスポーツだ』と言いました。父の友人にはボクサーがいて、彼らはディスコのオーナーや用心棒をしていました。私は14、15歳でディスコに出入りして、用心棒の真似事をして金を稼いでいました。プロテインを買うために。父はそれを見て激怒していました。でもあるトーナメントで優勝した時、『もういい、格闘技だけに集中しよう』と決めたんです」
──サッカーは本当に上手かったようですね。
「本当に上手かった。本当にね。私の街の多くの人にとっても、今の私の戦いぶりは驚きですよ。『おい、あの子はサッカーでも十分やっていけたはず』って言われます。『あの子はボールの扱いが本当に上手かったんだ』と」
──サッカーを完全に辞めたのは何歳の時ですか?
「確か15か16歳だったと思います。16歳か、15歳かそのくらいです。漠然としていますが、そのあたりです」
──お父さんは怒ったんじゃないですか?
「ええ、発狂していましたね。でも私の母は……母によく聞かれますが、母は苦労していました。母は本当に大変だったんです。私のプロ初戦は17歳の時でした。アマチュアMMAでたくさんの試合をこなした後です。プロ初戦で勝った時の報酬は200ユーロ(約3万円強)でした。実は、その試合に出るために、母にナイキのエアフォース1(白)を買ってくれと頼んだんです。当時は80ユーロくらいしました。『お母さん、試合の週に格好よく会場に入りたいから、80ユーロのナイキを買ってくれないか?』って。すると母は『そんなの買ったら、他の兄弟たちは何を着て何を履けばいいの?』と言いました。私たちは4人兄弟でした。今は5人ですが、当時は同じ父母の兄弟が4人。母はこう言いました。『フェイラ(市場)に行けば10ユーロで靴が買えるわ。4足買っても40ユーロよ。あんたと兄弟たちの分を買ってもまだ40ユーロ余る。それをあんたたちの学校のおやつ代にできるのよ』って。私は『嫌だ、市場の靴なんて履かない。そんなの履くくらいなら試合なんて出ない』と言いました。
結局、私は試合に出て、最高のパフォーマンスを見せました。その試合の週はどうしたかって? 親友のパウロがいつも試合についてきてくれるんですが、彼が自分のスニーカーを貸してくれたんです。少しサイズが大きかったけれど、それを履いて行きました。試合に勝つと、主催者がさらに200ユーロ上乗せしてくれて、合計440ユーロになりました。家に帰って『お母さん、これ200ユーロだよ』と渡しました。残りは自分の分とトレーナーの分にしました。母は驚いて『どこからそのお金を出したの?』と。母は私が戦っているのは知っていましたが、格闘技でお金が稼げるとは知らなかったんです。そんな話をしたことがありませんでしたから。私が『戦って勝ったんだよ』と言うと、母は『本当に? 格闘技で?』と聞き返しました。それ以来、母は私の食事を作ってくれるようになり、何が必要か聞いてくれるようになり、帰宅時間も自由になりました」
──多くのファイターは、親のサポートがなかったという人も多いですから。ただ、ここで気になるのは、父親はあなたにサッカー選手になってほしくて応援もしてくれて、君自身も才能があった。それなのに「もうサッカーには集中しない」と決めたことについて、後悔した瞬間はありませんでしたか?「ああ、親父の言う通りだった。頭を殴られるより(サッカーの方が)楽だった」と思うような。
「いえ、殴られるのが嫌だとかそういうことではありません。私が経験してきた苦労や欠乏を考えると……今の人たちは、SNSの写真や時計のような華やかな部分しか見ていません。いつもこうだったと思われがちですが、実際は極めて厳しく、残酷なものでした。道衣(キモノ)やグローブを買う金さえない時期もありました。本当に何もなかった。スポンサーの話なんて、当時はあり得ませんでした。一緒に練習している仲間が『おい、助けてやるよ』と言ってくれるような、友人たちのサポートだけでした。
家から遠い場所までバスを乗り継いで通い……本当に戦いであり、犠牲でした。これができるのは、この競技を愛している人間だけです。好きでもない人間は、途中で脱落します。減量などの過酷な要因もありますしね。私は自分のやっていることを愛しています。そうでなければ成功していません。ただ、あまりに状況がひどくて“あっち(サッカー)の道の方が楽だったかもしれない”と思った瞬間は確かにありました」
──経済的な安定を得るまでには時間がかかりましたか?
「いえ、私は常に“ビジネス”をする人間だったので。あちこちで商売をしていましたし、格闘技界以外の人たちと繋がる方法も知っていました。だから自分の金をどこに置けば利益を生むかを知っていました。それが長期間の安定と支えになりました。今はもっと楽ですが、2つのスポーツを比較することはできません。ただ、今は比較できるかもしれません。今の私がこの競技(MMA)で得ているものは、あちら(サッカー)で得られたかもしれないものと同等だと言えます。大きな差はありません」
──生活の質の話ですね。
「そう、生き方の問題です。私は君が買うようなランボルギーニを10台買うつもりはありませんが、金融リテラシーのある人間なら1台は買います。私は50万ドルあれば、ランボルギーニでもフェラーリでも買えます。賢くローンを組めば、君が持っているものを私も持てる。資産管理の問題です。10(稼ぐ人)ができることは、私もすべてできます。豪華なレストランで食事をし、良い服を着る。ただし、不必要な贅沢──ヘリコプターやヨットを買うなど──には手を出しません。そこから転落が始まるんです。何百万ドルも稼ぎながら、最後は路上生活になるアスリートはたくさんいます。どんなスポーツでもあります。数年で使い果たす。お金は“無礼”を許しません。ただ燃やすだけで入ってこなくなれば、いつか支払いのツケが回ってきます。だから今は恵まれた時期ですが、人生を楽しむと同時に、貯蓄や投資の方法を知っておくべきです。投資とは何か? 私は自分自身に投資しています。家族や生活の質に投資し、同時に蓄えています」
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親友の柔術に『なんだこれは? どうやってるんだ?』って。クレベル先生から柔術を学んだ
(C)Manel Kape
──プロMMAデビューは17歳でしたね。その時のベースは何でしたか?
「柔術とボクシングです。特に柔術でした。当時のポルトガルのMMAはあまり発展していませんでしたが、私にはクレベル(Kleber Repolho)という師匠がいました。彼は1999年から黒帯でした。ノナト(マチャド)先生の系統で、マナウスのノヴァ・ウニオンから来た非常にタフな柔術でした。ポルトガルで最も段位の高い先生の一人で、当時は珍しい存在でした。だから私の柔術のベースは非常に強力です。今、MMAでどこの旗を掲げているかと聞かれれば、私は『柔術だ』と言います。私のノックアウトシーンや打撃での戦い方を見て、多くの人は私がストライカー出身だと思っていますが、私の真のベースは柔術なんです」
──柔術は黒帯ですか?
「はい、黒帯です。確か2021年です。(オデー)オズボーンと戦った年だったと思います。もっと早く取れたはずですが、柔術の試合に出るのを止めていた時期がありました。柔術の試合は(遠征費などで)出費がかさむばかりで、当時はお金になりませんでした。私の師匠は非常に厳格で、試合に出て勝ち続けなければ黒帯はくれない人でした。私の実力は認めてくれていましたが、その後、私がポルトガルを離れてタイへ行ったりと環境が変わったため、黒帯取得まで時間がかかりました」
※本誌の取材では、柔術との出会いについて「最初は、親友のパウロから柔術を習っていたんだよ。たぶん当時は彼もまだはじめて数カ月くらいだったと思うけどね。で、そのパウロが『マネル、俺は今柔術をやってるんだ』とか言ってきたんだけど、僕は『気持ち悪りーな。男同士がやるもんじゃねえだろ』って答えたんだ。『俺はボクサーだぞ、そんなのやってる奴はKOしてやるよ』って言ったら、パウロが『いやいやそんなことはない、ここでやってみようぜ』って言い出して、二人で部屋で戦ったんだ。ともかく僕は彼にテイクダウンされ、抑え込まれてしまった。『なんだこれ、動けねえじゃねか!』って思ったよ。『なんだこれは? コイツはどうやってるんだ』ってね。当時は11歳か12歳だったけど、僕はすでにすごく強いボクサーだったんだ。少年ボクシングでは何試合も勝利していた。でも抑え込まれてまったく動けなかった。悔しかったし驚いたから、パウロに『こりゃすげえな、どうやったか教えてくれよ!』って頼み、いろいろ教えてもらったよ。それがきっかけで、道場で練習をするようになったんだよ。もっとも僕は基本技じゃなく、跳びつき腕+字みたいなアクロバティックな技ばかりやろうとしたんだけどね」(『ゴング格闘技』2020年3月号)
──でも、お父さんの影響でボクシングの練習も続けていたんですよね。
「はい。ポルトガルでは父の友人であるヴィナグレ先生というボクシングマスターのもとで練習していました。その後、タイへ行ってからはボクシングというよりムエタイを4年間やりました」
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母の病気でアンゴラへ帰国、マラリアで生死を彷徨い、RIZINへ
【写真】アンゴラでの母との写真。青のズボンがケイプだ。マネル・ケイプ提供
──タイではどこで練習を?
「AKAタイランド。練習はハードでした。観光客も多かったですが、ガチのグループは厳しかったです。(マルシオ・セザール)グラシーニャ先生という柔術もトップレベルの人と一緒でした。ムエタイの国にいながら、トップレベルの柔術も学べる環境でした」
──タイでムエタイの試合に出たことは?
「試合はありませんでしたが、ムエタイの練習は非常に多くこなしました。何百戦も経験があるような連中とスパーリングをしていました。メインのトレーナーは、ジョルジュ・サンピエールのトレーナーも務めていたL(ラムソンクラム・チューワッタナ)という人物で、非常に経験豊富でした。そこで私のムエタイの基礎が作られました」
──その期間、MMAの試合は?
「タイでは一度もしていません。その時期はもう日本のRIZINで戦っていましたから。タイで練習して、日本で戦うという生活でした。当時はキックボクシングの練習もしていましたが、タイに行ってからはよりムエタイ(ヒザ蹴りなど)に傾倒しました。でもパンチと蹴りの強いベースは持っていました」
──その頃はRIZINで活躍していた時期でしたね。タイは生活の質もいい。
「練習もハードですよ。非常に良いです。プラテスも6年くらい住んでいましたよね。彼とはあそこで会いました」
──UFC6勝1敗で、いまはファイティングナーズのカルロス・プラテスですね。
「ええ。夜遊びの場所(バラダ)で会ったり、練習しているのを見たりしました。彼は当時から夜遊び好きでしたが(笑)、それと同時に当時から『あいつは強い』という評判でした。ムエタイの試合を週に一度、40ユーロ(約6000円)くらいのためにこなしていました。本当にタフです。私は“怪我でもしたらどうするんだ、自分にはそんなの無理だ”と思って見ていました。とにかく試合数が多く、彼は本当にタフでした。一度パトン(プーケット)で彼の試合を見たことがありますが、凄まじかったです。彼がMMAに転向してUFCに来た時、私は自分のトレーナーに『あいつは来るぞ、タフだしノックアウトできる』と言いました。周囲はまだ半信半疑でしたが、私は彼が拳を当てれば試合は終わると確信していました」
──彼は以前もMMAをやっていて、タイでキックボクシングに集中した後、またMMAに戻ったんですよね。あなたの場合は、17歳でMMAデビューした時、もちろんその前に少し柔術の経験はありましたが、キックボクシングやボクシングのキャリアはなかったんですか?
「ボクシングの試合はいくつかしていましたが、公式な記録として数えられるようなものではありませんでした。主に柔術、ボクシング、そして多くのアマチュアMMAをこなしました。13歳や14歳の頃からです」
──13、14歳でアマチュアMMAを?
「はい。レガースとヘッドギアをつけてね。主催者の息子のジョゼ・フィリョという子がいたんですが、彼らはトーナメント表に私の名前(当時は55kg級)があると、私から逃げ回っていました。私は当時から“マレント(生意気)”な態度で会場に入っていましたから(笑)。“お前ら、覚悟しとけよ”って。主催者の息子と当たった時は、ボコボコにして一本勝ちしました。彼らにとっては悪夢だったでしょう。それ以来、次の大会に行くと、主催者が息子を別のブロック(グレリャ)に移動させるようになりました。でも私はいつも彼を見つけ出して追いかけました(笑)。彼を61kg級に上げたら、私も『2階級で出たい』と言って。1日に3試合も4試合もこなせたんです。私の師匠──カピートと呼んでいましたが、師匠は『おい、お前の階級には2人しかいないぞ。2試合じゃ物足りないだろ、上の階級にも出ろ』と言うので、『分かりました』と。57kg級で2試合して休んで、それから『僕の選手を60kg級にも出したい』と言うと、相手は『クソ、あいつがまた来たぞ』って。主催者の息子がどこにいても、私は神に誓って彼を見つけ出しました」
──その子に何か恨みでも?(笑)
「恨みはありませんよ。優勝すると主催者がレガースやグローブの道具をくれるんです。でも、彼の息子をボコボコにした時は、道具をもらえずに帰されたこともありました。その後、私は年上の連中と戦わされるようになりました」
──失礼を承知で言いますが、当時ポルトガルは世界的にMMAの強豪国というイメージはありませんでした。
「いえ、今のアマチュアMMAはポルトガルでも非常に強いですよ。K-1(キック)もね」
──17歳でプロデビューし、いつタイに移ったんですか?
「ヨーロッパで10試合ほどプロ戦をこなしました。フランスやスペインでも試合をして、若くして勝っていました。その後、アンゴラへ行きました。母が病気で、親族から連絡があったんです。それが私にとって初めてのアンゴラへの帰還でした。すでにMMAで良い経験を積んでいた時期です。
親族から『アンゴラに来い、お母さんに会ってやってくれ』と言われました。母は、父がアンゴラ大統領関連の仕事でしばらく滞在していたため、一人でポルトガルにいるのを避けて父のもとへ行っていたんです。私と3人の兄弟はポルトガルに取り残された形でした。そこで私はアンゴラへ飛びました。確か2015年か2016年から2年間ほど滞在しました」
──当時のアンゴラにはハイレベルな練習環境はなかったでしょう?
「ありませんでした。柔術だけは強かったです。アンゴラは柔術が非常に盛んです。私は母とは非常に強い絆がありましたから母に会うために行きましたが、そこでMMAを普及させようとしている連中に会いました。チャンスだと思いました。私はすでにポルトガルで1つ、スペインで2つ、合計3つのベルトを持っていました。MMAを普及させようと練習を始めましたが、現地の状況は“プレカリア”過酷でした。誰もが1日2回の練習をできるわけではありません。アンゴラでMMAアスリートになるのは、条件面で非常に難しい。食事などの基本的なレベルの話です。練習道具を輸入するのも非常に高い。ルアンダ(首都)は世界で最も物価の高い都市の一つですから。今はプロ選手も数人いますが、柔術競技者の数に比べれば極めて少ないです。だから状況は劣悪でした。私がRIZINと契約した時、私はポルトガルからではなくアンゴラから参戦したんです」
──それはすごい。
「練習相手は、イギリスから帰国した従兄弟のケニーだけでした。彼は英国でレスリングをやっていて非常に強かったですが、MMAのプロ経験はありませんでした。でもレスリングに関しては最高だったので、打撃のスパーリング相手になってもらいました。彼が唯一のサポートでした。あと筋肉トレーニングを助けてくれるウィルソンという友人がいました。ケニーは私より重くて背が低かったですが、レスリングができた。そこで練習を始めましたが、私はアンゴラでマラリアにかかってしまったんです。私の体質が現地に慣れていなくて、蚊に刺されてパルディズモ(マラリアの一種)になり、14kgも体重が落ちて死にかけました。幻覚を見るほどひどい状態でした」
──幻覚まで……。
「独り言を言っていました。それがRIZINと契約する直前のことです。私のMMAキャリアはここで終わったと思いました」
──ポルトガルに戻ったんですか?
「いいえ、母の病気(心臓疾患)があったので残りました。兄弟たちもアンゴラに来て私を支えてくれました。医師からは『マラリアでこの状態は死に至るケースだ』と言われ、目も黄色くなっていました。でも、私は回復しました」
──回復までどれくらいかかりましたか?
「数カ月かかりました。体重を戻し、再び走れるようになるまで。最初は足が鉛のように重くて走ることさえできませんでした。体が慣れるまで時間がかかり、当時はガリガリに痩せてしまいました」
※本誌の取材では、アンゴラに戻っていた時期について「よく一人で練習してたよ。ただアンゴラではボクシングをやっている人は多く、僕の弟も大きなボクシングチームに所属している。父のチームもある。だから午前中は僕もボクシングの練習ができた。午後にはチームで柔術をやる。MMAの練習もしたかったんだけど、パートナーがー人しかいなかった。しかもその彼も練習に来たり来なかったり。真剣に格闘技に打ち込んでいる人じゃなかったから。しかもアンゴラではよく停電が起きて、5時間とか7時間、灯りがないままだったりもするんだよ。他に行く場所もないから暗い中で練習したり、あとは車を持ってきてそのライトを照らして練習したりした」(『ゴング格闘技』2020年3月号)
──その間、2年半、公式戦を行えませんでした。
「そんな時、フランスの友人からメッセージが届きました。『日本のRIZINが、ヨーロッパや世界中から、少なくとも2つか3つのベルトを持っている選手を探している。61kg(バンタム)級のトーナメントのためだ』と」(※この項、続く)