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インタビュー

【追悼】アントニオ猪木はなぜモハメド・アリと戦い、どう攻略しようとしていたのか[インタビュー特別公開]

2022/10/01 15:10
異種格闘技とも積極的に交流してきたアントニオ猪木の歴史を振り返ると、その原点には“史上最大の他流試合”モハメド・アリ戦がある。UFC 1でホイス・グレイシーが優勝する17年前、アントニオ猪木はなぜボクサーと戦おうと思い、どう勝とうと考えていたのか。(『ゴング格闘技』2014年5月号掲載) プロレスラーは強くなくていいなんて時代はいつから始まったんですか? ──IGFが『INOKI GENOME FIGHT』と題したMMAルールの試合をメインにした大会を行なうことを発表しました。それを受けて今回、会長である猪木さんに、格闘技との関わりを伺いたいと思います。現役時代、たしか力道山さんに他の格闘技に転向させられそうになったというお話を聞いたことがあります。 「相撲ですね。相撲取りになれ、と言われたことがあります。あと、ザ・デストロイヤーがアメリカンフットボールの世界と関わっていたので、アメリカンフットボールに日本人のスターがいないから私にやらせようという話もあったようです。力道山先生が亡くなったあとで聞いたのですが、相撲の親方と話をして、一度相撲に出そうというような話を進めていたようですね」 ──ボクシングや柔道に対してのライバル意識はありましたか? 「ボクシングは、アメリカへ行った時にジョージ・パナサスというプロモーターがいたんですよ。私がテキサスへ行った時に彼からプロボクサーにならないかと誘いを受けました。プロレスがあまりにもアメリカで衰退していたので、そんな誘いもあって、若い時ですからいろんなことにふっと心を動かされることもありました。最初のファイトマネーが1000ドルだと掲示されましたからね。でも、そこまでの話で。ボクサーからプロレスに転向してきた選手がいて、ボクシング界の実情を聞いてやめました(笑)」 ──そこからボクシング界に関わることはなかったのですか? 「あの頃は、世界タイトルに挑戦したボクサーたちがプロレス興行のゲストのような形でよく出て来たりしていたんですよ。ミックスマッチなど、アメリカはいろんなことをやっていましたからね」 ──昔は特に、プロレスのチャンピオンとボクシングのチャンピオンではボクシングの方が世間に認知されていましたよね。それに対する悔しさはありましたか? 「いえ、そんな意識は持っていませんでしたよ。アメリカでプロレスのプロモーターが滅んだのは、あまりにもコアな世界に入ってしまったからです。“プロレスとはこうあるべきだ”という凝り固まった世界に。そうではなく、投げた石の波紋が広がればいいっていう考え方もあって、その両方の感覚をバランスよく私は保ってきました」 ──では、プロレスの側からプロボクシングを敵視はしていなかったんですね? 「していないですね。それはそれ、これはこれですから。ただ、プロレスラーとしての誇りは持っていました。もし戦えば、プロレスラーの方が絶対に強い、というね」 ──プロレスラーは強くなくてはいけないと考えていたんですね。 「そこが今のプロレスラーは変わってしまったのでしょうかね。引退したジィさんが何を言っているんだ、と若い衆から言われるかもしれませんが……。それはしょうがないです。だから猪木がいまだに光っているのではないでしょうか」 ──猪木会長は、なぜプロレスラーは強くなくてはいけないと思ったのですか? 「プロレスラーは強くなくていいなんて時代はいつから始まったんですか? 15~20年前くらいから格闘技とプロレスを分けるようになり、すぐにその現象は現れなかったかもしれないけれど、結局今につながっている気がします」 [nextpage] アリを潰さなくて良かったとも思います ──その強さの象徴として、世界で一番強いと言われていたプロボクシングの世界ヘビー級王者モハメド・アリに挑戦して強さを証明しようと思ったのですか? 「少し違いますね。意表を突くというか、世間をビックリさせるというか、興行とはそういうことの繰り返しなんです。成長し続けるためには行動の変化、脱皮をしていかないとなりません。幼虫からさなぎになり、さなぎから蝶になって羽ばたいていく、というね。政治の世界でも一時なら風を吹かすことは可能です。でもその風が吹き止んでしまった時に、また新しい風を吹かすのがどれだけ難しいか」 ──住む世界が違うわけですから、アリと戦う必要はなかったのではないですか? 「そんなことはないです。アリが『ボクシングこそ最強の格闘技だ』と言ったわけですから。それに噛み付いたのが猪木だったということです。アリがクアラルンプールへ向かうため羽田空港を通過する際に挑戦状を叩きつけたわけですが、スポーツ紙には売名行為だなんだと叩かれまくりました。私はその繰り返しですから。確かに噛み付かなければ済んだ話かもしれないけれど、どこかにプロレスラーの誇りというか、“何を言っているんだ、このヤロー!”って気持ちがありました」 ──アリはショーをやるつもりでやって来たところ、猪木さんが「ダメだ、リアルファイトだ」と主張したそうですね。 「そんな話はしたこともないし、アリがどう思っていたかも知りません。まあ、あとになっての話は面白くなった方がいいでしょうからね(笑)。あくまでもこっちは勝負だ、と思っていました」 ──アリ戦では「競技者がロープに触れたときはブレークとなる」というルールになったようですが、そこでどう戦おうと考えたのですか? 「それよりもアリをリングに上げることが先決で、このまま帰られたら全世界に赤っ恥をかかされると。日本に来た以上はリングに上げることが最優先で“何でも条件は飲んでやる”という感じでした。もうしょうがないじゃないですか」 ──猪木さんが出来ることは、あのアリキックだけだったんですか? 「いや、そんなことしなくても勝つ自信はあったんですよ。捕まえたらこっちのものだ、という。私もあまり映像を見たくないので見ていないけれども、何かの収録の時に見たら私が上からヒジを一発かませたら終わりだったじゃないですか。でもその手が下りなかったというのは、私の意識は関係なく何か見えざる力が働いたというか。変な言い方をすれば“神”がそうさせたというかね。もし私が勝っていたとしても、モハメド・アリに猪木が取って代われるかと言えば代われないし、アリを潰さなくて良かったとも思います」 ──なぜ、あの猪木─アリ状態と呼ばれる体勢になったのですか? あれは前もって想定していたことなのでしょうか? 「いえ、全然。昔は『柔拳』(明治末期から昭和初期にあった柔道vsボクシングの興行)というのがあったでしょう? あれで柔道家はすぐに寝るんです。柔道家はパンチを受けないため、ボクサーは相手に組まれないためにどうするか、それぞれ考えて動くとそうなります。ルールは決まっていないわけですから」 ──1975年にブラジルから来たルタ・リーブリ出身のイワン・ゴメスが新日本プロレスに留学生として帯同していました。アリ戦の3カ月前に帰国していますが、彼の動きから何かヒントを得るようなことはありませんでしたか? 「それはありませんね。ゴメスはバリツーヅ(バリトゥード)の使い手ということで、藤原(喜明)とかは足関節の練習をやっていましたけどね」 ──猪木─アリ状態を15ラウンド、あの体勢をずっと続けるのはきつかったのではないですか? 「そんなことありませんでしたよ。それだけ身体は鍛えていましたから。ただ、身体はボロボロでしたけれどね。たしか右手が上がらない状態だったんです。グラスも持てませんでしたから。練習で相手のパンチを右手で受けると、痺れてしまいました。それでもこちらは倒して上に乗っかれば勝てると思っていましたよ。でも、ロープを抱えられてしまったら、これは倒せないですよね」 ──スタンドでの蹴りが禁止といわれるなか、寝た状態からのキック。よくああいう戦法を猪木さんは思いつきましたね。 「あれは本能的なものだと思います。グローブの中に何かが入っているかどうかも分からなかったですが、これはもらったら危ない、と。タックルを見切られてのパンチは絶対に食えない。私もシューズに鉄板を仕込んだけれども、さすがにこれは……と思い、試合直前に取り外しましたけれどね。外さずに蹴っていれば、一発で終わったでしょう。ルールはあっても“何も決まっていない”んだから。本能的にこれは危ないと感じて、理屈ではなく、アリのパンチを食わないためにはこうだって身体が動いたんでしょうね」 ──4オンスのグローブにバンデージとテーピングで拳を固めれば、それだけで相当硬くすることも可能です。アリがグローブに細工をしていたという報道もありましたが、事前のバンデージチェックはなかったのでしょうか? 「やっていないんじゃないですか。パンチをもらったことは覚えていませんが、2発もらっただけで翌日コブになりましたからね。普通のグローブだったらコブにはならないですよ。あれではどこに当たっても引っくり返っていたと思います。捕まえに行く方は中央に引きずり込みたい。けれども、相手にロープを捕まれたら倒せないじゃないですか。  まぁ、あとになってみればあれもこれもといろいろ言えますが、しょうがないでしょう。中身は何を言われても仕方がないと思いますが、あの試合が実現出来たってことが私の歴史の中で大きな勲章になり、いまだに政治で外交するのにもプラスになっています。普通の議員なら会えませんけれど、私はいろんな国の要人とも会えますから。いまキューバからもプロの興行をやって欲しいとの要請があります」 [nextpage] とことんやってもいいということであれば、私は何でもやります ──まだ「MMA」という言葉が無かった時代に、現役ボクシング世界ヘビー級王者をリングに上げ、「何でもありなら絶対に勝つ」と確信していた。それだけの自信をどのような練習で身につけたのですか? 「昔、日本人のヘビー級ボクサーがいたんです。そんなに大きくはないんですが。でもボクシングをやっても私の方がパンチが強くて。ボクシングというのは体重でそれだけ違ってしまうんだな、と思いました」 ──猪木さんもボクシングのスパーリングをやられたんですか? 「何ラウンドもやりましたよ」 ──アリ戦前にはシリーズを休んで合宿所で練習されたようですね。竹刀の先にグローブをつけて突いてきたものをかわしたり、スライディングキックをしたり。 「もう少し、キックボクシングの蹴りを学んでいればとは思います。接近したところでもっと体重をかけて蹴れば、もっとダメージを与えられたかもしれません。でも、あと数センチ入ればパンチをもらうかもしれませんから、かなり危険ではあったでしょうね」 ──当初、猪木さんはどういう作戦を考えていたんですか? 「とにかく捕まえれば倒せる、とは思っていました。そこから先までは考えていません。計算してどうこうしようはなかったですよ。この野郎、と言われるくらい自惚れていましたからね(笑)」 ──その自信の裏打ちは何だったのでしょうか? 日本プロレス時代のカメラマンに聞いたことがあるのですが、猪木さんは巡業に行っても1時間早く会場入りして、1時間みっちりと練習して汗をかいていたと聞いたことがあります。 「それに加えて朝はランニングしていました。走るのはそんなに得意ではなかったんですが、ある時からランニングを始めました。大体5~10Kmは走っていましたね。新日本プロレス時代は社長業もあったので、リングで汗をかくというよりは自分で体調をコントロールしておかないといけなかったので。ランニングのあとはストレッチをやったり。零下10~15度のロシアでも、テロが起きていたニカラグアでも走っていました(笑)」 ──しっかり練習しないと気がすまなかったのですか? 「それが仕事だと思っていましたから。本音を言えば、余計なことは一切やらずに練習に専念していればよかったんですけれど、そういうことが出来ないタイプですからしょうがないですね。あれもこれもとチャレンジしていきたい性分なので」 ──猪木さんは十代でブラジルに渡ってからも陸上選手権での砲丸投げや円盤投げで優勝するほどの選手でした。その身体能力は、ブラジルでの農園での仕事で培われたものなのでしょうか。 「朝から晩まで働きましたからね……。市場に移ってからも夜中から朝方まで野菜などを上げ下ろしする肉体労働でしたから、身体も強くなりました」 ──ところで当時、猪木さんがブラジルで生活されていた周辺で、柔術の道場を見かけることはありませんでしたか? 「見なかったですね。青果市場は町なかでしたから」 ──猪木さんの格闘技術の根幹はカール・ゴッチさんから学んだレスリングですか? 「元々は兄貴たちが空手をやっていたので、その実験台に使われていたのが最初ですかね。私はその頃から身体が大きかったので。小学生なのに兄貴たちが蹴りを入れて、小便を漏らしたことがありますから(笑)。肉体労働の後、どんなに疲れてもランニングをしたり、空手の突きを兄貴たちが教えてくれたりしていました。それとゴッチさんの出会い、全く違ったタイプのルー・テーズさん、もうひとつは力道山。この3人が私の師匠ですね」 ──猪木さんは、アームロックで相手の肩を外したり、いざとなったら目を指で突いたりする裏技も繰り出しました。いざとなったらやるということは、やられる覚悟も出来ていたということでしょうか。 「それは……多分、時代が違うのかもしれませんね。やはり自信がなければ、そういうことも出来ないでしょうし。戦いは下がるか、出るかのどっちかでしょう。とことんやってもいいということであれば、私は何でもやります」
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