1976年6月25日、前日計量で対峙したアリと猪木。アリ99kg、猪木100.5kgで、当時のアリとしては絞り込まれた身体だった(C)ゴング格闘技
異種格闘技とも積極的に交流してきたアントニオ猪木の歴史を振り返ると、その原点には“史上最大の他流試合”モハメド・アリ戦がある。UFC 1でホイス・グレイシーが優勝する17年前、アントニオ猪木はなぜボクサーと戦おうと思い、どう勝とうと考えていたのか。
(『ゴング格闘技』2014年5月号掲載)
プロレスラーは強くなくていいなんて時代はいつから始まったんですか?
──IGFが『INOKI GENOME FIGHT』と題したMMAルールの試合をメインにした大会を行なうことを発表しました。それを受けて今回、会長である猪木さんに、格闘技との関わりを伺いたいと思います。現役時代、たしか力道山さんに他の格闘技に転向させられそうになったというお話を聞いたことがあります。
「相撲ですね。相撲取りになれ、と言われたことがあります。あと、ザ・デストロイヤーがアメリカンフットボールの世界と関わっていたので、アメリカンフットボールに日本人のスターがいないから私にやらせようという話もあったようです。力道山先生が亡くなったあとで聞いたのですが、相撲の親方と話をして、一度相撲に出そうというような話を進めていたようですね」
──ボクシングや柔道に対してのライバル意識はありましたか?
「ボクシングは、アメリカへ行った時にジョージ・パナサスというプロモーターがいたんですよ。私がテキサスへ行った時に彼からプロボクサーにならないかと誘いを受けました。プロレスがあまりにもアメリカで衰退していたので、そんな誘いもあって、若い時ですからいろんなことにふっと心を動かされることもありました。最初のファイトマネーが1000ドルだと掲示されましたからね。でも、そこまでの話で。ボクサーからプロレスに転向してきた選手がいて、ボクシング界の実情を聞いてやめました(笑)」
──そこからボクシング界に関わることはなかったのですか?
「あの頃は、世界タイトルに挑戦したボクサーたちがプロレス興行のゲストのような形でよく出て来たりしていたんですよ。ミックスマッチなど、アメリカはいろんなことをやっていましたからね」
──昔は特に、プロレスのチャンピオンとボクシングのチャンピオンではボクシングの方が世間に認知されていましたよね。それに対する悔しさはありましたか?
「いえ、そんな意識は持っていませんでしたよ。アメリカでプロレスのプロモーターが滅んだのは、あまりにもコアな世界に入ってしまったからです。“プロレスとはこうあるべきだ”という凝り固まった世界に。そうではなく、投げた石の波紋が広がればいいっていう考え方もあって、その両方の感覚をバランスよく私は保ってきました」
──では、プロレスの側からプロボクシングを敵視はしていなかったんですね?
「していないですね。それはそれ、これはこれですから。ただ、プロレスラーとしての誇りは持っていました。もし戦えば、プロレスラーの方が絶対に強い、というね」
──プロレスラーは強くなくてはいけないと考えていたんですね。
「そこが今のプロレスラーは変わってしまったのでしょうかね。引退したジィさんが何を言っているんだ、と若い衆から言われるかもしれませんが……。それはしょうがないです。だから猪木がいまだに光っているのではないでしょうか」
──猪木会長は、なぜプロレスラーは強くなくてはいけないと思ったのですか?
「プロレスラーは強くなくていいなんて時代はいつから始まったんですか? 15~20年前くらいから格闘技とプロレスを分けるようになり、すぐにその現象は現れなかったかもしれないけれど、結局今につながっている気がします」