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第43回講談社本田靖春ノンフィクション賞が7月15日に発表され、本誌『ゴング格闘技』執筆陣の細田昌志による『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修 評伝』(新潮社)が同賞を受賞した(※もう1作は、『エクソダス アメリカ国境の狂気と祈り』村山祐介・著)。
『沢村忠に真空を飛ばせた男~』は、キックボクシングを創設し、芸能界を制した伝説のプロモーター・野口修の数奇な人生と、その主役として抜擢され、ときに翻弄された沢村忠の物語でもある。
現在、本誌では「『沢村忠に真空を飛ばせた男~』外伝」を連載中だが、その最中に沢村が他界。以下の細田の追悼文を掲載した。“キックの鬼”と呼ばれた沢村が格闘技界に遺したものとは何か? 講談社ノンフィクション賞受賞を記念し、webに初掲載する。
細田昌志「『キックの鬼』の事実は一つ」
起床してすぐスマートフォンを手に取る癖は、なるべく直したいものである。見入ってしまうと、朝の貴重な時間を溶かしてしまいかねないからだ。
2021年4月1日、午前8時。新年度初日のこの日、寝室から書斎を素通りして洗面所に向う途中、充電中のスマホの着信ランプが視界に入った。やけにせわしく点灯しているようであり、「いいから早く俺を見ろ」と訴えているようでもある。造作もなく手に取って画面を開いた。
「沢村忠死す」──スポーツ報知のスクープである。
昨秋上梓した『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)で筆者は「キックボクシング生みの親」である野口修の波乱の生涯を活写した。併せて、日本格闘技史上最大のスーパースターである沢村忠の数奇な半生も詳述した。
本名・白羽秀樹。少年時代から映画スターに憧れ、中学生のとき「新東宝ニューフェイス」に選ばれ俳優としてデビュー。芸名は「城哲也」。その後、脚本や演出、舞台芸術を学ぶために入学した日本大学藝術学部映画学科の剛柔流空手道部に入部したことが人生を大きく旋回させる。空手家としての才能を開花させ、野口修が立ち上げたキックボクシングにスカウトされたのだ。
TBSで放映されたキックボクシングが爆発的な人気を得たのは、もちろん、プロモーター野口修の才覚と情熱が大きい。が、エースである沢村忠の存在がなければ、その構想の半分も実現しなかったに違いない。
代名詞ともなった必殺技「真空飛び膝蹴り」でタイ人を次々となぎ倒し、子供たちを夢中にさせた。テレビの高視聴率を弾き出し日本中が大騒ぎになった。アニメの主人公にもなった。絵に描いたような社会現象──そんなことを成し遂げた格闘家は、後にも先にも沢村忠くらいしか思い浮かばない。
その後、沢村忠は現役を引退。ブームも終焉を迎える。引退後は表舞台から姿を消して長い晩年に入った。だからといって、人付き合いまで絶ったわけではまったくない。
「真空飛び膝蹴り」の名付け親で『YKKアワー・キックボクシング』で実況を務めた元TBSアナウンサーの石川顕は「訃報は関係者から連絡があって」と言う。
「沢村さんとは、彼が現役を引退してからも会っていました。沢村さんもゴルフが大好きで、一緒によく回ったものです。だから、私のように引退後も会っていた人間からすれば『姿を消した』という風評は、なんとも不思議な気がしたものです」
拙著を著述する上で筆者は67人もの関係者から話を聞いた。ともすれば辛辣となる野口修の評判とは対照的に、沢村忠については多くの人が口を揃えて、温和で優しいその人柄を懐かしんだ。
「あんな常識人はいないですよ。本当に。いつも親切で気配り心配りの人。私も職業柄、多くのスポーツ選手やアスリートに会ってきましたがその点において、彼は一番かもしれません。忘れえぬ人です」(石川顕)
「サームラはイイヒト。あんなにイイヒトはいない。『何か困ったことはないか』と、いつも気遣ってくれた。優しい男だった」(元ジムメイトで対戦経験もあるポンサワン・ソーサントーン/※拙著より抜粋)
「お正月になると、修伯父さんの自宅で野口一門の新年会が開かれるの。普段は仲の悪い三迫(仁志)会長と金平(正紀)会長が、この日だけは何事もないように同席するのが、新年の恒例行事(笑)。そんなある年、沢村さんがグレーの袴姿で現れたことがあった。小学生だった私は『カッコいい!』って。『やっぱりスターは違う!』ってそう思わせた一番身近な人。それでいて全然偉ぶらないし、気さくで温厚な人。もう何年も会ってなかったんだけど、やっぱり寂しいですね」(野口修の実弟、故野口恭の長女、野口詩延)
人柄だけではない。実直な性分は日頃のジムワークにも現れた。
かつて野口ボクシングクラブに所属し、日本王座を4度防衛、東洋王座を11度防衛、3度の世界挑戦をはたした元プロボクサーの龍反町(本名・反町則雄)は、拙著の取材時にこんな挿話を聞かせてくれた。
「俺と沢村さんは、ファイトマネーで食えない時代に、同じ職場で働いていたことがあった。8時始業の5時終業。それで目黒に戻って練習するんだけど、同じ時刻に会社を出たはずなのに、目黒の道場に着くと沢村さんはとっくに練習している。『あれ、一緒に出たのにおかしいなあ』って(苦笑)」
ボクシングとキックボクシングの選手が混在していた1966年から68年にかけての野口ボクシングクラブは、午後5時から8時までがボクシング、8時から11時までがキックボクシングと、練習時間を区切っていた。沢村忠はボクシングの練習から参加していたのだ。
「沢村さんは練習の鬼でもありました。『そこまでやるの、休みましょうよ』そう言いたくなるくらい徹底的に身体を苛めていたんです。あるとき、取材のクルーはなくて、私一人でふらっとジムに顔を出したんです。それでも一緒でしたね。やっぱり練習している。改めて尊敬しました」(石川顕)
善良な人間性に練習熱心──格闘家の鏡であることは言うまでもない。
沢村忠の訃報が伝えられてから、いくつかの追悼稿を目にした。
その多くが往年の人気から生じたエピソード、実直な人柄に関するもので、試合の情実に言及したものは、地方紙に載ったコラムの一文、《実際にはエキシビションマッチも多かったといわれている》(2021年4月15日付/熊本日日新聞夕刊)を除いて見当たらなかった。追悼稿という性格上、不穏当と判断したのかもしれない。
しかし、現役時代から引退後にかけて、彼がこなした試合について論じられてきたのは、隠しようのない事実である。