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インタビュー

デカセギからRIZINへ~サトシとクレベル、日系ブラジル人とボンサイ柔術と日本の絆

2021/06/12 11:06
 リング上の勝者はトロフィーを掲げてマイクを手に取ると、「ごめん。今日はちょっと難しい話がある」と、満員のアリーナの観客に語りかけた。 「ほんとうにありがたい人はいっぱいいる。私のチーム、私の家族……今日のこのトロフィーは一人ね、一人にあげたい。サカモト・ケン! いつも私を手伝ってくれて本当にありがとう。ごめんね、1カ月前、あなたのお母さん亡くなったね。だから今日、たくさん練習してきた……。お願い、お母さんに持っていって」──そこには、日系3世のホベルト・サトシ・ソウザらブラジリアンと、浜松・磐田の日本人との魂の交流の物語があった。  13年前、単独で“デカセギ”が可能になる18歳の誕生日から1週間後、サトシはブラジルから来日した。静岡県磐田市の工場で鉄の加工の仕事につき、朝6時半の送迎バスに乗って仕事に向かう日々。サウナのように暑い作業場のなか、重い鉄を扱うライン仕事は過酷で、すぐに体重が減ってしまった。“ザンギョウ”は時に深夜に及ぶ。それは多くの日系ブラジル人労働者たちの日常だった。 【写真】1908年(明治41)4月28日、神戸港を出た笠戸丸。  “ニッケイ”と呼ばれたブラジル人たち。そのルーツは113年前に遡る。  1908年4月28日、781人の日本人が「笠戸丸」で神戸港を出港し、52日後の6月18日にサンパウロ州のサントス港に到着した。最初のブラジル移民だった。 「錦衣帰郷」の言葉とともに故郷に錦を飾ろうと過酷な環境のなか入植した日本人の多くが、現地に根を張った。その2世・3世たちが30年前、「錦衣」の帰郷ではなく「デカセギ」として来日した。  当時、日本はバブル景気の好況とともに労働力不足が深刻となり、1990年に入管法を改正。以降、滞在期間や就労に制限がない「定住者」として認められた日系ブラジル人たちが多数来日し、日本の製造業などを支えた。  現在、国内最大級の格闘技大会「RIZIN」で活躍するホベルト・サトシ・ソウザ、クレベル・コイケ(ともにボンサイ柔術所属)もその一人だ。  2019年7月28日、『RIZIN.17』さいたまスーパーアリーナ大会で1R TKO勝ちしたサトシがマイクで呼び掛けたのは、浜松でソウザ兄弟とともにボンサイ柔術の日本支部起ち上げに尽力した人物の名前だった。  坂本健──2004年にサトシの兄、長兄のマウリシオ・“ダイ”・ソウザが来日してから17年間、ソウザ兄弟とともにボンサイ柔術を支援してきた人物。その坂本の亡くなった母に、サトシはトロフィーを捧げたい、と言っていた。  出稼ぎとしての“ニッケイ”ブラジル人には、これまで「派遣切り」など大きく3度の危機が訪れている。最初は2008年のリーマンショック、2度目は2011年東日本大震災、そして、3度目はコロナ禍の今、だ。 【写真】笠戸丸の甲板に立つ日本人移民たち。  そんな中、なぜサトシをはじめとするボンサイ柔術の面々は、日本に残ったのか。そして、2021年6月13日(日)「RIZIN.28」東京ドーム大会で、サトシがGP王者のトフィック・ムサエフと、クレベル・コイケが朝倉未来と対戦するまでに至ったのか。  そこには、移民として海を渡った人たちを祖先に持つ日系人が、日本をルーツとする「柔術」を通して、日本に根付いた「共生」の歴史があった。 [nextpage] ソウザ兄弟の才能を埋もれさせてはいけない 【写真】ボンサイの絵をバックにサンパウロの道場にて、左から次男マルコス、長男マウリシオ、父アジウソン、三男ホベルト・サトシ、長女ユカリ、前列は四男ムリーロ。  早朝から夜9時の残業まで、昼夜を問わず工場で働いていたサトシの兄ダイに、坂本が出会ったのは2004年のことだ。  日系ブラジル人しかいない磐田のサークルでブラジリアン柔術を習っていた坂本は、その年に来日した小柄なボンサイ柔術の長兄ダイに、巨漢の重鎮2人が実力を測るように、疲労した練習後半にスパーリングを仕掛けたときのことを覚えている。 「ダイ先生は力を使わず、2人ともことごとく極めてしまった。ボス的な2人がすぐにその実力を認めて、従うようになりました」  ボンサイ柔術の創始者で父アジウンソン・ソウザと同じように小柄な分、引き出しが多く確かな技術を持っていたダイ。そして内面的にも信頼できる人柄に、坂本は惹かれた。  ダイやサトシの父アジウソンは、ヒクソン・グレイシーの父エリオ・グレイシーも認めた柔術家だ。サンパウロで柔道、極真空手も学んでいたアジウソンは決して裕福ではなかったが、自分たちより貧しい人たちに無償で柔術を教えるなど地域に貢献し、周囲から敬意を得ていた。その息子たちはデカセギとして来日し、資金を蓄えることでボンサイ柔術を世界に広めようとしていた。  そんななか、ノールールに近い“何でもあり”の試合で活躍する柔術家たちに憧れてブラジリアン柔術を始めた坂本と、ソウザ兄弟が日本で出会った。日系ブラジリアンによる犯罪もあるなか、坂本にはもともと偏見が無かったという。 「周囲にそう指摘されるまで、自分はそのことに全然気付かなかったんです。というのも、柔術が強くて上手い彼らを尊敬していたから、差別するなんて考えたこともなかった」 【写真】2008年、来日したばかりのサトシを中央に。左がマルキーニョス、右は長兄ダイ。  パウリスタ(サンパウロ柔術選手権)で5度の優勝を誇るダイに続いて、19歳で黒帯を巻いた次男のマルコス・ヨシオ・ソウザ(マルキーニョス)、そして「将来の黒帯世界王者候補」といわれた三男のサトシも来日。彼らが長時間の「3K(キツい、危険、汚い)」労働の後に柔術に勤しむ姿に、坂本は自分に何か出来ることはないか考えたという。 「以前、自分もバイク工場でアルバイトをしたことがあるんです。すぐにこれは無理だ、と思いました。ライン作業で常にベルトコンベアにクラッチが流れてきて、ちょっとでも気を抜くと、あっという間にたまってラインが止まってしまう。わずか1カ月だけのバイトでしたが、ほんとうに厳しかった」  ソウザ兄弟は、特別な才能を持っているのに、工場で働いて疲弊している。このまま埋もらせてしまってはいけない。自分が道場をつくって、指導者としての仕事をつくれないか。そうしたら、いつか彼らも工場で働かなくても生活できるようになるかもしれない──そんな思いで坂本は、浜松の積志駅近くに「ブルテリア格闘技ジム」をオープン。そこをボンサイ柔術の日本支部とした。 【写真】遠州鉄道の積志駅から徒歩1分に位置するブルテリア・ボンサイジム。遠鉄は単線鉄道ながら一日の運行本数は166本と全国でもトップクラスの生活路線だ。  デカセギとして14歳で両親とともに来日したクレベル・コイケもソウザ兄弟の実力に惚れ込んだ一人だ。日本のボンサイ柔術に入門することで初めてブラジリアン柔術を知ったクレベルは、サトシと同い年。サトシの柔術での輝きを知るクレベルは、兄たちが道場運営に専念できるようになっても、工場で働きながら練習や指導をするサトシとともに工場に通い、その背中を追っていた。 [nextpage] 「派遣切り」に身を寄せ合って暮らした  そんななか、2008年の秋、リーマンショックが起きた。  ブラジル人の多くは短期契約の非正規雇用。不況で最初に痛手を負うのは社会的弱者だ。雇用の調整弁として働き「派遣切り」で職を失うと、派遣会社の寮で暮らしていた多くのブラジル人達が住む場所を失い、突然の帰国を余儀なくされた。  橋の下で寝泊まりをする者も現れるなか、日本政府は「帰国支援金」として、手切れ金のように30万円を給付して帰国をうながした。しかし「5年間再入国禁止」という厳しい条件付きだった。抜け穴のように法を改正し“ニッケイジン”を利用するだけ利用し、都合が悪くなると「国へ帰れ」という。そのとき、マルキーニョスもサトシもクレベルも、ブラジルには帰らず、日本に残った。  ひとつのアパートに身を寄せ合って暮らす日々。当時を彼らはこう振り返る。 【写真】自動車部品の関連工場に勤めていたマルキーニョス。 ”リーマンショックの頃は、道場に日系ブラジリアンが多かったから、すぐに道場経営が成り立たなくなった。ブラジル人がみんな帰ったり、残っててもみんな給料が無いから、月謝を払えない。2年くらい、ただ家賃を払い続けて。だんだん生徒が戻って来たときに、今度は2011年にツナミが起きた……大変だったけど、このときは日本に恩返しがしたくて、チャリティーセミナーで物資を集めて、被災地まで送ったりしたよ(マルキーニョス) 【写真】2008年、浜松のボンサイ柔術創設時に兄弟でペンキ塗りをするサトシ。 “当時は本当に一番キツかった。工場の仕事も急に午後2時とか3時までに短縮されて、給料もすごい下がった。道場生も数人になってしまって、わずかなお金を食費にあてていた。マルキーニョスとクレベルとお金を持ち寄って、3万円ずつ分け合って暮らしていた。ブラジルに戻らなかったのは、夢があったから。私の夢は日本での夢だった。でもいろいろなデカセギ外国人たちはやっぱりお金を貰って帰ったよ。それぞれの事情があったし目的が違う。私はここで成長したかった。いまのようにRIZINも無いし、ツラい時期だったけどね」(サトシ) 【写真】共同生活をしていた頃の(左から)サトシ、マルキーニョス、クレベル、エヴェルトン。クレベルの表情がまだ幼い。 “リーマンショックのときは18歳だった。家族で家を買うためのお金を貯めてたけど、それをブラジルに帰るための費用にあてることにして、両親たちはブラジルへ帰った。僕はちょうど柔術から2008年にMMA(総合格闘技)でデビューしたときだったから、ツラくても日本に残ったよ。工場の仕事が無いときは、養鶏場やゴミ回収のアルバイトもした。頭の中は、“一度やってみなきゃ分からない”だった。自分の柔術をMMAで試してみたかった。日本でどれだけ格闘技でやれるのかも。  もともと柔術は日本がルーツだ。それを僕は、日本で出稼ぎにきて、このボンサイ柔術で習ってプロファイターになった。あのときブラジルに帰っていれば……それはいまに至るまでの道のりより簡単なルートだけど“ニゲミチ”だった。そしていまの僕は無かった。ここにはボンサイ柔術と、サカモトさんのように、僕ら“ニッケイ”を繋ぐ日本人がいたし、日本の“セイト”たちがいたからね」(クレベル)  日系ブラジル人と日本人、その壁を感じていた日本人もいた。 [nextpage] 心奪われた。柔術をやってみたいって(関根) 【写真】丸暴担当から国際捜査課に移動した頃の関根。サングラスにいかついスーツ姿での入門相談に、坂本は「刑事ではなく完全に逆側の人かと思いました」と苦笑する。  RIZINやプロレスで活躍する関根“シュレック”秀樹も、サトシたちを「先生」と呼ぶ「生徒」の一人だ。  元刑事の関根は、柔道出身。当初は、愛するプロレスラーの船木誠勝がヒクソン・グレイシーに絞め落とされた姿を見て、ブラジリアン柔術を「敵」だと感じていた。  2000年代、関根が勤務していた浜松ではブラジル人による犯罪が頻発していた。外国人犯罪の事案を手がける国際捜査課に異動となった関根は、ブラジル人に関する情報収集を目的に、ブルテリア・ボンサイ柔術に入門した。  柔道で活躍し、機動隊出身の関根にとって、オリンピック競技でもない柔術は“下”の存在だった。ところが、ボンサイ柔術で関根は、その奥深さに触れる。 「初めてダイ先生のテクニックを見たときに、十字絞めの襟への手の入れ方が美しすぎて“ああ、モノが違うんだな”と。そして、マルキーニョスと組んでみたら、もうこてんぱんにやられた。自分の力を使う前に流されて、力が入らない。このときに、心を奪われたんです、柔術を習ってみたいって」  当時は、いまよりずっと日本人と日系ブラジリアンの間に大きな壁があった。互いを知らず、知ろうともせず、距離を置くことで、分断と対立が生まれていた。 【写真】上から攻めるばかりだった関根は、いつしか力に頼らないガードポジションから仕掛けるスタイルに変わっていた。  関根は、初めて出場した柔術の白帯の大会を勝ち上がるなかで、予想もしなかった応援を受ける。 「4試合目でもう足がつって、握力も無くて、体力の限界がきちゃったんです。それで動けなくなったら、ブラジル人たちが男の子も女の子もみんな、ものすごい大きな声で応援してくれて……まるでテレビで観ていたブラジルのサッカーの試合みたいに、『セキネ、セキネ!』って……感激しましたね。勝ったことにじゃなくて、今までの人生でそんなに応援されたことなんてなかったから」  義理がたく情に厚い──昔の日本人のような気質を持つ彼らを、最初から色眼鏡で見ていたことに、関根は気付いた。 【写真】2021年5月の関根。クレベルが持つミットにパンチを打ち込む。  練習後のある日、ダイから自宅でのシュラスコパーティーに誘われた。野趣溢れる料理に、ラテン音楽。明るく、ときに情緒的な旋律は、祖国を離れた日系ブラジリアンたちの郷愁、同じルーツを持ちながら異なる文化を育った、サウダージとも呼べる感情を呼び起こした。おおらかなブラジル人たちは緩やかな時間を生きている。もしかしたら日本人の方が急ぎすぎなのかもしれない。相手の習慣や価値観を理解すること。関根は、またひとつブラジリアンたちの、ほんとうの気持ちに近付いたような気がした。 レッテルを貼ること、無知が恐怖を呼ぶ 【写真】関根もRIZINでのスダリオ剛戦をアピールしている。  関根のなかで変化が起きていた。 「当時、警察官と接点のあるブラジル人の多くが犯罪者で不良ブラジル人とばかり会ってるから、ブラジル人を見ると『ブラ公、ブラ公』って蔑称で呼んでる同僚がいたんです。『お前らは……』って。それを聞いて思わず自分、『ブラ公なんて言うんじゃないよ。なんにも悪いことしてない人にそんな風に言うなよ』って」 「お前ら」と呼ばれた瞬間、そう呼ばれた人がマイノリティーになる。何らかのレッテルを貼っていることが意識の中で働き、ひとくくりにしてしまう。そして“知らない”ことが、恐怖を呼ぶ。  坂本も関根も口をそろえて言う。 「悪いブラジル人もいれば、良いブラジル人もいる。日本人も同じ。悪い日本人も良い日本人もいる。そんな当たり前のことに、気付けないのは“知らない”から。もしかしたら、日本人がブラジル人を怖い、と思うように、ブラジル人も日本人を怖い、と思っているかもしれないのに」 [nextpage] 日本人はフリオ(冷たい)じゃなかった  リーマンショック後、職を失い「あなたの国に帰りなさい、ここにいる必要はない」と日本人から言われ、多くの同朋たちが帰国した。しかし、サトシには、この地で「一緒に歩いてくれる人」たちと、すべきことがあった。  ブラジルで父アジウソンから、いつも「人として正しい道を進むように」「やるべきことに100パーセントを注ぎなさい」と言葉を受けていたサトシは、末期がんで入院した父のために一時帰国し、直に黒帯を手渡されている。それは「アジウソン ソウザ」と刺繍された父の黒帯だった。 「この帯を病院のベッドの上ではなくタタミの上で渡したかった。でもここから出られないって分かっている。この帯を誇りに思い、幸運を祈る。腰に締めるたびに、“何を求めるべきか”思い出して。力になるから」  サトシにそう言った夜、父は逝った。 【写真】RIZINで柔術衣を着て入場するサトシ、その帯は父から譲り受けたものだ。(C)RIZIN FF 「父が危篤状態のとき、私たちはお金が無くてブラジルに帰れなかった。そこでお金を貸してくれたのが、お父さんの知人でした。その時、彼に聞かれたんです。『なんでまだ浜松にいるのか? なぜブラジルに帰って来ないのか?』と。そのときに兄のマルキーニョスと話し合ったのは、私たちには夢がある、ということ。将来的にボンサイ柔術を世界に広めていくという夢を持っていて、その目標があったから、決して諦めなかったし、これからも諦めない」 【写真】試合前も道衣での練習を行っていたサトシ。スパーで挑むボンサイ柔術の鈴木琢仁も、6月19日のDEEP TOKYOのセミファイナルでAACCの石塚雄馬と対戦する。  サトシがデカセギをしながら、ムンジアル(柔術世界選手権)の紫帯と茶帯で優勝したのは、来日後だ。欧州選手権では黒帯を制している。青帯まではブラジルで基礎を作り、それ以降は日本でしか練習していなかったサトシが優勝したことは、世界の柔術家を驚かせた。日本で「世界」を獲ることは不可能と言われていた状況を、サトシが切り開き、サトシの活躍を見て日本の柔術家、そして日本のブラジリアンコミュニティの子供たちも「頑張れば僕たちもできる」と希望を持つことが出来た。  そんなサトシたちを見守ってきたのが、坂本健の母・正子さんだった。2018年の秋にステージ4のがんと宣告を受けながらも治療を耐え抜き退院。マルキーニョス、サトシ、クレベルの試合をいつも会場で応援してきた。 【写真】勝利者トロフィーを天国の正子さんに渡して、と伝えたサトシ。 「サトシのRIZINデビューが決まった時も、すぐに母を連れていく約束をしました。まだ10代の頃からサトシを見て来た母は、サトシが念願のRIZINで勝利したことを我がことのように喜んでいて、サトシも勝利後、浜松に帰る前に横浜アリーナの観客席にいる母にこっそり会いに来てくれたんです。その後、母は様態が急変し緊急入院し、6月16日にこの世を去りました」(坂本)  冒頭のサトシの言葉は、この正子さんに向けた言葉だった。2019年7月さいたまスーパーアリーナで勝利したサトシは、日本の母を失い、勝利者トロフィーを捧げた。 【写真】左から坂本健、サトシ、正子さん、坂本の父、マルキーニョス。 「どこへ行っても、僕が試合をすると坂本さんのお母さんも一緒に来ていて、応援してくれた。常に自分と一緒に歩いてくれた。日本人はフリオ(冷たい)という人もいたけど、そんなことはなかった。日本でボンサイ柔術を始められたのも、今、坂本さんが僕を助けてくれているのも、坂本さんのお母さんが坂本さんと僕らを助けてくれたからだと思っています」(サトシ) 「柔術は規律を与えてくれる」という。  道場では生徒たちが待っている。キッズたちに最初に教えるのは基本の技と「防御」だ。自身をいかに護るか。柔術の源がセルフディフェンスなら、自分の心も護れないといけない。だから、2019年のライト級トーナメントのジョニー・ケース戦で見せたような、心が折れる敗戦はもうしたくない、という。  2021年6月13日、東京ドームで、RIZINライト級のベルトがかかる試合を前に、サトシは誓う。 「前回のトーナメントで優勝したムサエフのことをすごくリスペクトしている。でも、たとえどんなに劣勢になっても、諦めない。心も身体も柔術が護ってくれる。ラスト1分でも一瞬を逃さない。上にいても下にいても、どこにいても必ず、極めてみせる」 [nextpage] 自分なら出来る、この道で行くと決めた(クレベル)   サトシとともに、クレベル・コイケは、東京ドームで、YouTuberとしても人気を博す朝倉未来と対戦する。両者の試合は、「日伯の喧嘩屋対決」とも言われている。  来日当時14歳のクレベルは、痩せっぽちの少年だった。日本の中学校で日系ブラジル人たちがいじめられている姿を見て、学校には行かなくなった。  日本人の祖父がブラジルで柔道をやっていた縁から、サンパウロで7歳から柔道を始め、来日後、ボンサイ柔術に入門した。静岡県天竜市の伯系コミュニティーの柔道サークルにも通っていたクレベルは、後の北京五輪柔道女子ブラジル代表にもなったダニエラ百合中沢バルボーザとも練習していたという。  柔道は「下手くそだった」。 「柔道でやられそうになったときによく寝技に行った。柔道のルールだと、三角(絞め)を持ち上げられたら『マテ』じゃないですか。でもそれで止めないで絞めたら、めっちゃ怒られた」と苦笑する。 【写真】三角絞めを狙うクレベル。柔道時代の投げもMMAで生きている。 「柔道の“微妙な黒帯”にはなりたくなかった」という。柔術でスペシャルな黒帯選手になること、そしてMMAで成功すること。 「サトシはいつも自分にとってこうなりたい、という存在。サトシとは歳も同じで、帯の進級も一緒だった。でも、柔術のレベルは全然違った。だから、僕はMMAを感じてみたかった。子供の頃から喧嘩も多かったし“何でもあり”になったらどうなるか、自分ならできる、僕はこの道で行くと決めたんだ」  リーマンショックの年に始めたMMAは、初期の試合で苦い敗戦を経験しながらも、9年をかけて、欧州のメジャータイトルを獲得するまでになった。 【写真】ドーム級の会場は経験済みのクレベル。ポーランド5万8千人の観客の前でベルトを巻いた(C)KSW  2017年5月27日、ポーランドのワルシャワ国立競技場でクレベルは、王者マルチン・ロゼクに判定勝ちし、第3代KSWフェザー級王者に輝いている。磐田のアパートで食費をかきあつめていた少年が、「5万8千人」の大観衆の前でベルトを巻いた。クレベルにとって最初の到達点だった。 「KSWではいつもライオンと戦っているようだった。常に自分はアウェーで勝ちを望まれていなかったから。僕にとって周りにいる人たちが幸せだと思えることが最大のモチベーションだ。両親と離れて戦うことが、それだけのことをかける価値があることだと感じたかった」  その後、2019年から日本に主戦場を移したクレベルは両親も呼び寄せ、3試合連続で一本勝ちをマークしている。 [nextpage] 「センセイ」という言葉はすごく重みがある  そして、今回の朝倉未来戦。類まれなストライカーの朝倉に対し、クレベルは強い柔術を軸とした思い切りのいい打撃、そして時に、相手を引き込むことも辞さない、下からの柔術のガードワークを武器とする。それは、現代MMAでは、タブー視されている危険なムーブだ。 「僕は、本当に自分の柔術を信じている。人生で生きていくなかで、大変なときがあって、それを乗り越えて、そこから強くなって成長してきた。試合も人生と同じで、良いときも悪いときもある。悪かったときに、大きな経験を積んで強くなった。みんな『ヒジ打ちありでグラウンドで下になるのは危ない』と言うけれど、今までたくさんそういった経験をしてきた。もしミクルがパンチやヒジを打って来たら、自分にとっては極めるチャンスがどんどん生まれてくる。僕が警戒すべきは、ミクルのコーナーゲームやロープゲームだ。コーナーやロープを掴む反則はしっかりチェックしてほしい」 【写真】2021年3月の前戦で強豪の摩嶋一整に、サトシ同様に三角絞めで一本勝ちしたクレベル。三角が入った瞬間に「Vou pegar!(極める)」と叫んだ。(C)RIZIN FF “喧嘩屋対決”と喧伝されるが、坂本も関根も、クレベルが怒りをあらわにするときは、たいてい周囲のことだという。 「クレベルが熱くなるときって、自分のことじゃなくて周りに何かあったときなんです。例えば試合中に、相手コーチに生徒が突き飛ばされて怒ったり、友達に何かあったりとか、義侠心のようなものがある」(坂本) 【写真】ブルテリア・ボンサイジ柔術の入口に貼ってある朝倉未来のポスター。クレベルは「毎日見るよ」という。  その部分で朝倉未来と比較されることについて、クレベルは、「ミクルと違いがあるとしたら、僕たちの方が厳しい時代を過ごしてきた、ということ。悲しい話はいろいろあるけど、それだけに執着したくないんだ。いろいろ難しかったよ。彼は好き好んで自分からそっちの道に行ったかもしれないけど、僕にとっては行きたくて行ったわけじゃなくて、場合によってはギャングの道に巻き込まれてしまう可能性もあったんだ」という。  そうならなかったのは、ボンサイ柔術の仲間たちの力が大きい。  父の亡き後、サンパウロ本部を継いだダイは、リーマンショックで帰郷を迫られたクレベルが、様々な誘いを受けるなか、「マルキーニョスとサトシと一緒に住むといい。彼らとともに進んでほしい」と道を示した。  同い年のサトシもクレベルの良い資質を引き出してきた。クレベルが仲間のために会場でもめ事を起こして問題になったとき、破門されそうになったクレベルをサトシは涙を流して「自分が一緒にいるからチャンスをあげてほしい」とマルキーニョスを説得し、道場に留まらせた。そんなサトシが、RIZINのリング上にクレベルも引き上げたのだ。  そして、多くの偏見にさらされた日本で、敬意を獲得するきっかけも柔術だった。 「僕にとって“センセイ”という言葉はすごく重みがある。それは彼らにとって良き道を示す責任があるということ。セイトたちもその親たちとも、一人の人として接することが出来る。自分のことを格闘家として知っている人たちは敬意がある。  でも、反面、“ニッケイ”“ガイジン”として、差別的な思いを抱く人がいることも理解できる。ニッケイブラジル人の中にも悪いブラジル人がいて、それによって自分たちも影響を受けてしまうことも。 『日本で義務教育も受けてない日系人が一人で生きていくことなんてできない。だから自分を守るためにもギャングのメンバーになるしかなかった』という言葉を聞いたことがある。自分は、できれば証明したい。みんながみんな悪いブラジル人じゃない、柔術が君を守ってくれるよ、と」 [nextpage] 常に「外側」にいたアウトサイダーとして 【写真】ポーランドのスタジアムでは、ブラジルと日本の国旗のハチマキを巻いて戴冠を迎えた。(C)KSW  日本とブラジルの国旗を掲げてKSWで王者になったとき、ポーランドでは空港職員からサインを求められた。帰国した日本の空港では、職務質問を受けた。何が自分を既定するのか。ブラジルではブラジル人として見られず、出稼ぎに来た日本では日本人に見られず、それでも日本人の血が流れ、この国に住んで18年になる。いまの自分はナニジンなのか。 「いまでも日系ブラジル人。日本人とは言い切れない。でもここでは自分に差別はない。それに、日本人と同じじゃなくていい」と、クレベルは、いう。 「日本人と違うところがある。私とあなたは違う。でもその違いがあることを認めることが大事。それが……ディベルシダージ(多様性)だし、その力を育むのが格闘技だ。それを通して、僕は共通の言語、柔術でみんなと会話できる」  朝倉未来とは、その意味で似てるとも思う。“ニッケイ”として常に日本人の“外側”にいた。 クレベルもまた“アウトサイダー”の一人なのだ。 【写真】朝倉未来と対峙したクレベル。「簡単にタップはしない」という未来に、クレベルは「ならば絞め落とすか折るだけ」と決意を見せた。  それでも、いまの彼には帰るべき場所がある。「日本に僕の生活がある。僕らの夢はこの日本で、日本の子供たちが柔術を通して成長し、人として豊かになることをサポートすること。そして、それを僕ら“ニッケイブラジル人”がやれるってことを、この国の人に見てほしい。僕の家族を助けることが出来るのも、僕にとって大きな夢だ」  コロナ前に、母国ブラジルのファベイラ(貧民街)で、ボンサイ柔術のソーシャルプロジェクトとして、120人の子供たちに柔術を指導し、道衣や大会参加費などを援助。さらにスポンサーを集め、食べ物や衣服などを提供する“足長おじさん基金”を起ち上げた。 「『サトシやクレベルみたいになりたい』ってメーセージが来るよ。彼らの目標になりたい。その意味で、MMAのベルトは僕にとってファイシャ・プレタ(黒帯)みたいなものだ。試合は僕たちの違いが如実に出るだろう。打撃が勝つか、僕らの柔術が勝つか。試合も人生も苦しい時間は必ずある。でも、最後にベルトを巻くのは自分。それ以外の道はない」 [nextpage] 人として人生に向き合うこと 【写真】「ソウザ兄弟やクレベルたちが、いつかもっと大きな世界へ飛び出す時が来たら快く送り出したい」と坂本は言う。  現在、在留ブラジル人は20万人を超えている。それでもブラジル人の増加率は他国よりもゆるやかで、総数で1位は中国人、2位は韓国人、3位はベトナム人、4位はフィリピン人、ブラジル人は5番目だ。  少子高齢化が止まらない日本は、今後も海外からの人材がなければ経済が立ちゆかないのが現実で、すでに日本は移民大国と言える。そんななかで、いかに対立から相互理解を深めるか。  ボンサイ柔術とその仲間たちは、浜松・磐田の地で、行政より先に、コミュニティーの一員として共に歩む道を進んできた。少なくとも坂本は、サトシやクレベルたちの「人生」を受け入れてきた。  坂本は、サトシやクレベルらボンサイ柔術の面々が試合に向かうとき、必ず行っている儀式を、控え室や柔術会場の片隅で見守ってきた。  父アジウソンが遺した擦り切れた本の写真と言葉を前に正座し、戦うことを誓い、気持ちを集中させて、リングや畳に向かう。 【写真】父であり師でもあるアジウソンの言葉を噛み締めて、時に涙を流し戦いに向かう。 “O jiu jitsu sempre foi a alegria da minha vida.Todas as vezes que amarrei minha faixa honrei meu kimono. Dos adversarios que perdi, aprendi a licao de como fazer certo.Dos que ganhei, a certeza de que percorri o caminho da vitoriasem nunca me sentir melhor ou pior. 「柔術は私の人生で常に幸福をもたらしてくれました。毎回、帯を結ぶ度に私は、自分の道衣の労をねぎらってきました。戦いに負けた時は、私は戦った相手から正しいやり方を教わりました。戦いに勝った時は、勝利に向かって進んで来た道が正しかったことが確認できました。それにより、最高や最悪といった気持ちに支配されることはありませんでした」 “Tirei de cada treino, todo o prazer que o esporte de kimonopode oferecer. A maior verdade que encontrei foi a alegria dos meus filhos,o amor da minha esposa e o respeito dos meus amigos.Sigo em paz certo de haver cumprido minha tarefa.” Adilson de Souza 「私は日々のトレーニングで、柔術の中で幸福を感じていきました。柔術は私にそれらを提供してくれました。そして私の見つけた最大の真実は、私の子供たちの喜び、妻への愛、そして友人たちへの敬意でした。私は安らかに、自分の使命を果たしたことを確信しています」──アジウソン・デ・ソウザ  勝つこと・負けることより、真に戦うこと──それはタタミの上だけではなく、リングでも日常でも、相手だけでなく自身の心とも戦い、敬意を持つこと。それを父は柔術の“息子”たちに伝えていた。 [nextpage] 変わるアイデンティティ、変わらないスピリット 【写真】父アジウソンを中心に、サンパウロのボンサイ柔術にて。  アジウソン・ソウザが創始した「ボンサイ柔術」の由来は、ボンサイは手入れが大変だが、手をかければ美しく、強くなることから名付けられたのだという。  かつてブラジルに渡った柔道家は柔術との対立のなかで、「柔道も柔術も同じ」だと言った。「だって柔道も柔術も同根ですから」と。  人の魂は住む土地の風土に根差す。どのような人物に成長したか、どこに帰属するかという意味で、人は土地の影響を受ける。土が変わればボンサイも変わる。マルキーニョスは、ボンサイ柔術も変わっているという。 【写真】1996年、父アジウソンと母マリー・ヒラヤマと少年時代のマルキーニョス。アジウソン手作りのボンサイブラジル道場にて。 「いま、お父さんが見たら驚くかもしれないね。クラシックなボンサイ柔術にモダン柔術が加わり、いまはサトシたちのMMAが、僕たちの柔術のなかに確実に備わっている。でもボンサイ柔術のスピリットは変わらない。そして、アイデンティティも変わるものだと思う。常に自分が何者であるかは再定義していくものでしょう? でも、それは誰かにレッテルを貼られるものじゃない。自分のアイデンティティが何かを決めるのは、自分自身の選択だから」  2021年6月13日、東京ドームで我々は新たなボンサイ柔術と、サトシ&クレベルの姿を見ることになるだろう。(取材・文=松山 郷) ※この記事はゴング格闘技とLINE NEWSによる特別企画です。
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