1986年10月に創刊され、30年以上の歴史を誇る格闘技雑誌『ゴング格闘技』が、秘蔵写真と共に過去6月にあった歴史的な試合や様々な出来事を振り返る。第8回目は1991年6月4日、東京・国立競技場第2体育館にて開催された『LAST CHANCE USA大山vs正道会館5vs5全面対抗戦』より、大将戦で実現したまさかの一戦。 1991年3月、正道会館から驚きの発表があった。6月4日、東京・国立競技場第2体育館にて、空手界初の試みである流派全面対抗ワンマッチ大会を開催するとの発表があったのだ。
対抗戦を行うのは正道会館(石井和義館長)とUSA大山空手(大山茂総主)。そして大将戦では、正道会館のエースである佐竹雅昭と“熊殺し”ウィリー・ウィリアムスが行われるという。ウィリーは1979年11月に開催された極真会館『第2回全世界空手道選手権大会』で3位入賞した後、1980年2月にアントニオ猪木との異種格闘技戦を行い、1984年1月の『第3回全世界空手道選手権大会』に出場した後は表舞台から姿を消していた。
それが伝説から7年ぶりに蘇り、現役バリバリの佐竹と対戦するというのだ。この一戦は格闘技界で大きな話題となった。ウィリーは40歳になっていた。
試合は2分3Rで行われた。1R開始直後にダイナミックな突きで攻め入ったウィリーだったが、佐竹のヒジで拳を叩き落されてしまう。2Rから右下段廻し蹴りを多用した佐竹は、以後を独壇場に。右下段廻し蹴りからの突き、そして左上段廻し蹴りのコンビネーションを主軸に、上段後ろ廻し蹴りまで繰り出す余裕ぶりだ。
佐竹の強烈な右下段廻し蹴りが激しくヒットを続ける。軽快なモーションから繰り出す一撃一撃の手応えを感じ取るたびに、正道のエースは瞳の輝きを増していく。既にウィリーには反撃に転じる余力は残されていない。
15歳若い佐竹の猛襲の前にダウンから逃れるのがやっとの状態…かつての“熊殺し”は4500人の大観衆の前で人間サンドバッグと化した。それでも意地で最後まで倒れることなく試合終了。佐竹が判定勝ちで伝説を打ち砕いた。
「気持ちよく試合が出来た。もう1Rあったら倒せたな。右ローが効いているのは分かった。下を蹴っておいてハイキックへつなぐというのは作戦通りです」と試合後の佐竹は笑顔でコメント。次は誰と戦いたいかとの質問には「前田日明と戦いたい」と口にした。
一方、ウィリーは「実は3月に交通事故を起こしてしまい右足を痛めていた。体調は完全ではなかった」と告白。「だが佐竹は強かった。完全な負けだよ。でも日本のファンの前で最後まで精いっぱい戦えたことは凄く嬉しいし、誇りに思っている。今日まで空手をやってきて本当に良かった、と心から思う」と清々しい表情で語った。