MMA
コラム

【1999年4月の格闘技】ミノワマンが頭突きありの過激ルールで大道塾王者と死闘

2020/04/20 22:04
 1986年10月に創刊され、30年以上の歴史を誇る格闘技雑誌『ゴング格闘技』が、秘蔵写真と共に過去4月にあった歴史的な試合や様々な出来事を振り返る。42回目は1999年4月8日に東京・後楽園ホールで開催された大道塾の主催大会『THE WARS V』。  格闘空手(現在は空道)の大道塾が実験的なワンマッチ興行の『THE WARS』を初開催したのは1992年7月のこと。スーパーセーフ(頭部に着用する防具)で顔面パンチを認めていた大道塾がグローブにも適応できるかとのテーマを持って開催され、大道塾の選手vsキックボクサーの試合が主に行われた。  1993年にも『WARS II』が行われ、ある程度グローブにも対応できることが証明されたためWARSは封印されたが、同年に初開催された『UFC』で総合格闘技が一気に注目を集め、早くから打つ・蹴る・投げる・極めるを技術体系に取り入れていた大道塾は否が応でも比べられた。そのためTHE WARSは1996年に復活し、今度は総合格闘技ルールでの試合が行われることに。  1999年4月8日に開催された5回目のTHE WARSでは、大道塾がパンクラス、プロ修斗、無門塾、パラエストラを迎え撃つ形で、さながら総合格闘技の交流戦の形で行われた。 (写真)足関節の取り合いも見られた そのメインイベントで行われたのが、前年の北斗旗体力別重量級で優勝し、2000年に開催が予定されていた『第1回格闘空手世界大会』(仮称)で日本のエースとして期待されていた山崎進(大道塾)が、パンクラスの若手・美濃輪育久(=後のミノワマン/パンクラス)を迎え撃った試合だった。 (写真)タックルに来る美濃輪にヒジ打ちの連打で応戦する山崎 ルールは、当時パンクラスが採用していた通常の総合格闘技ルールに加えて頭突きとヒジ打ちも認められるまさに“何でもあり”の過激ルール=パンクラチオンルールが採用された。  消防隊員である山崎は不運にも、試合当日の朝に夜勤を解除され、約2時間の睡眠をとって会場へ駆けつけた。アマチュア選手ならではのハンディだったが、山崎はあのセーム・シュルトを一本背負いで投げまくったこともある選手。プロとして負けられない意地がある美濃輪は「試合前の2週間はずっと緊張しっぱなし。入場式の時も足が震えていた」という。 (写真)山崎を大きく抱え上げてテイクダウンする美濃輪 他流試合ならではの緊張感が場内を覆う中、開始のゴング。開始早々、美濃輪は物凄い勢いでタックル。抵抗する山崎から強引にテイクダウンを取ると、ガードポジションの上からいきなり頭突きを山崎の顔面にぶち込む。ガツン、ガツンという鈍い音と共に、リングサイドの記者席には血しぶきが飛んできた。  最初は山崎の血かと思われたが、よく見ると美濃輪の額がざっくりと切れている。流血を下のポジションから見た山崎は「これで勝ったと変な余裕を持ってしまった」という。が、滴り落ちる血をものともせず美濃輪は頭突きを続け、下から山崎もお返しの頭突き。美濃輪の返り血で山崎の顔面も真っ赤だ。凄まじい展開に場内には山崎コールと美濃輪コールが交錯する。  スタンドに戻って美濃輪が山崎をコーナーへ押し込めると、山崎はフロントチョーク。構わず美濃輪が山崎の片足をつかみ身体ごと抱え上げて落とす再度のテイクダウン。サイドポジションを取る。が、山崎も下から攻撃し、両者はそれぞれ細かくヒジと頭突きの交換を続ける。  もつれて山崎がリング外に出てしまい、スタンドで再開すると美濃輪はすぐにテイクダウンを仕掛け、徹底して山崎にパンチを打たせない作戦だ。山崎は何とか打ち合いたいが、パワーの差は歴然で美濃輪にテイクダウンを許してしまう。  最後はガードポジションの上から美濃輪がパウンドのラッシュ。山崎が懸命に防いでいるところでタイムアップとなった。ルールにより判定はなく時間切れ引き分けとなったが、終始ペースを握っていたのは美濃輪。常に上になることを狙った美濃輪が「ほぼ思い通りの試合ができた」と振り返ったのに対し、山崎は「全然ダメ。一番嫌な展開だった」と語った。
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