キックボクシング
コラム

「キックの鬼」の事実は一つ=講談社本田靖春ノンフィクション賞受賞記念『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修 評伝』著者・細田昌志 特別寄稿

2021/07/19 12:07
 第43回講談社本田靖春ノンフィクション賞が7月15日に発表され、本誌『ゴング格闘技』執筆陣の細田昌志による『沢村忠に真空を飛ばせた男 昭和のプロモーター・野口修 評伝』(新潮社)が同賞を受賞した(※もう1作は、『エクソダス アメリカ国境の狂気と祈り』村山祐介・著)。 『沢村忠に真空を飛ばせた男~』は、キックボクシングを創設し、芸能界を制した伝説のプロモーター・野口修の数奇な人生と、その主役として抜擢され、ときに翻弄された沢村忠の物語でもある。  現在、本誌では「『沢村忠に真空を飛ばせた男~』外伝」を連載中だが、その最中に沢村が他界。以下の細田の追悼文を掲載した。“キックの鬼”と呼ばれた沢村が格闘技界に遺したものとは何か? 講談社ノンフィクション賞受賞を記念し、webに初掲載する。 細田昌志「『キックの鬼』の事実は一つ」  起床してすぐスマートフォンを手に取る癖は、なるべく直したいものである。見入ってしまうと、朝の貴重な時間を溶かしてしまいかねないからだ。  2021年4月1日、午前8時。新年度初日のこの日、寝室から書斎を素通りして洗面所に向う途中、充電中のスマホの着信ランプが視界に入った。やけにせわしく点灯しているようであり、「いいから早く俺を見ろ」と訴えているようでもある。造作もなく手に取って画面を開いた。 「沢村忠死す」──スポーツ報知のスクープである。  昨秋上梓した『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)で筆者は「キックボクシング生みの親」である野口修の波乱の生涯を活写した。併せて、日本格闘技史上最大のスーパースターである沢村忠の数奇な半生も詳述した。  本名・白羽秀樹。少年時代から映画スターに憧れ、中学生のとき「新東宝ニューフェイス」に選ばれ俳優としてデビュー。芸名は「城哲也」。その後、脚本や演出、舞台芸術を学ぶために入学した日本大学藝術学部映画学科の剛柔流空手道部に入部したことが人生を大きく旋回させる。空手家としての才能を開花させ、野口修が立ち上げたキックボクシングにスカウトされたのだ。  TBSで放映されたキックボクシングが爆発的な人気を得たのは、もちろん、プロモーター野口修の才覚と情熱が大きい。が、エースである沢村忠の存在がなければ、その構想の半分も実現しなかったに違いない。  代名詞ともなった必殺技「真空飛び膝蹴り」でタイ人を次々となぎ倒し、子供たちを夢中にさせた。テレビの高視聴率を弾き出し日本中が大騒ぎになった。アニメの主人公にもなった。絵に描いたような社会現象──そんなことを成し遂げた格闘家は、後にも先にも沢村忠くらいしか思い浮かばない。  その後、沢村忠は現役を引退。ブームも終焉を迎える。引退後は表舞台から姿を消して長い晩年に入った。だからといって、人付き合いまで絶ったわけではまったくない。 「真空飛び膝蹴り」の名付け親で『YKKアワー・キックボクシング』で実況を務めた元TBSアナウンサーの石川顕は「訃報は関係者から連絡があって」と言う。 「沢村さんとは、彼が現役を引退してからも会っていました。沢村さんもゴルフが大好きで、一緒によく回ったものです。だから、私のように引退後も会っていた人間からすれば『姿を消した』という風評は、なんとも不思議な気がしたものです」  拙著を著述する上で筆者は67人もの関係者から話を聞いた。ともすれば辛辣となる野口修の評判とは対照的に、沢村忠については多くの人が口を揃えて、温和で優しいその人柄を懐かしんだ。 「あんな常識人はいないですよ。本当に。いつも親切で気配り心配りの人。私も職業柄、多くのスポーツ選手やアスリートに会ってきましたがその点において、彼は一番かもしれません。忘れえぬ人です」(石川顕) 「サームラはイイヒト。あんなにイイヒトはいない。『何か困ったことはないか』と、いつも気遣ってくれた。優しい男だった」(元ジムメイトで対戦経験もあるポンサワン・ソーサントーン/※拙著より抜粋) 「お正月になると、修伯父さんの自宅で野口一門の新年会が開かれるの。普段は仲の悪い三迫(仁志)会長と金平(正紀)会長が、この日だけは何事もないように同席するのが、新年の恒例行事(笑)。そんなある年、沢村さんがグレーの袴姿で現れたことがあった。小学生だった私は『カッコいい!』って。『やっぱりスターは違う!』ってそう思わせた一番身近な人。それでいて全然偉ぶらないし、気さくで温厚な人。もう何年も会ってなかったんだけど、やっぱり寂しいですね」(野口修の実弟、故野口恭の長女、野口詩延)  人柄だけではない。実直な性分は日頃のジムワークにも現れた。  かつて野口ボクシングクラブに所属し、日本王座を4度防衛、東洋王座を11度防衛、3度の世界挑戦をはたした元プロボクサーの龍反町(本名・反町則雄)は、拙著の取材時にこんな挿話を聞かせてくれた。 「俺と沢村さんは、ファイトマネーで食えない時代に、同じ職場で働いていたことがあった。8時始業の5時終業。それで目黒に戻って練習するんだけど、同じ時刻に会社を出たはずなのに、目黒の道場に着くと沢村さんはとっくに練習している。『あれ、一緒に出たのにおかしいなあ』って(苦笑)」  ボクシングとキックボクシングの選手が混在していた1966年から68年にかけての野口ボクシングクラブは、午後5時から8時までがボクシング、8時から11時までがキックボクシングと、練習時間を区切っていた。沢村忠はボクシングの練習から参加していたのだ。 「沢村さんは練習の鬼でもありました。『そこまでやるの、休みましょうよ』そう言いたくなるくらい徹底的に身体を苛めていたんです。あるとき、取材のクルーはなくて、私一人でふらっとジムに顔を出したんです。それでも一緒でしたね。やっぱり練習している。改めて尊敬しました」(石川顕)  善良な人間性に練習熱心──格闘家の鏡であることは言うまでもない。  沢村忠の訃報が伝えられてから、いくつかの追悼稿を目にした。  その多くが往年の人気から生じたエピソード、実直な人柄に関するもので、試合の情実に言及したものは、地方紙に載ったコラムの一文、《実際にはエキシビションマッチも多かったといわれている》(2021年4月15日付/熊本日日新聞夕刊)を除いて見当たらなかった。追悼稿という性格上、不穏当と判断したのかもしれない。  しかし、現役時代から引退後にかけて、彼がこなした試合について論じられてきたのは、隠しようのない事実である。 [nextpage] 沢村忠を取り巻く言語環境は「否定」か「美化」しかなかった  芥川賞作家にして政治家としても数々の顕職を飾った石原慎太郎は《STというフェイクによって仕立てられた無敵(?)のチャンピオンがいて大層な人気だった》(『わが人生の時の人々』文春文庫)と容赦なく書いた。  元テレビ東京専務取締役の白石剛達は「僕には片八百長だってわかっていた。当たっていなくても倒れるんだからね」(『ゴング格闘技』2010年12月号)と躊躇なく述べた。  前出のコラムを地方紙に寄稿したスポーツライターは、沢村忠と対戦経験のあるタイ人の自宅に招かれた折、そこで聞き知った真空飛び膝蹴りの内幕を仔細に書き留めている。そして、往年のキックボクシングを次のように結論付けた。 「ショーとしてのキックとスポーツとしてのキック。その頃世の中には“ふたつのキック”が存在していたと言っていい」  このように、数多の記述や証言を目の当たりにした以上、いくら追悼稿とはいえ、格闘技の専門媒体がそのことに触れないのは、はたして本当に正しいのかという逡巡はある。  また、そのことに触れないで、生前の彼の心情まで汲み取れるはずはないという訝しさもある。  筆者自身バンコクまで飛んで、沢村忠と対戦した前出のポンサワン・ソー・サントーンに直接話を聞いている。そこで行われた試合がいかなるものだったか、噂や都市伝説の類ではないことを確信した。  とはいえ、前出の主張に対しては、さしたる異論はなくともいささかの不満はある。「沢村忠こそ功労者」という視点に乏しいことだ。  一方、無条件に褒めそやすことに対しても、筆者は埋めがたい懸隔を感じる。  2001年に刊行された『真空飛び膝蹴りの真実──“キックの鬼”沢村忠伝説』(加部究著/文春ネスコ)では、真剣勝負だった前提で物語を紡いでいる。本作が力作ではあるのは疑いようがないとしても、違和感は残った。  筆者が拙著を上梓した際にも、熱狂的ファンと思しきアカウントから「許せない。すべて真剣勝負だ」といった意見が寄せられた。純粋な夢を壊したことに対して、著者として弁解の余地はない。  ともあれ、沢村忠を取り巻く言語環境は、「否定」か「美化」しかないのである。  筆者が拙著を上梓するにあたって、主人公、野口修と同様に、主要な登場人物である沢村忠の名誉を少しでも回復させたかったのは、通読された読者なら理解されるものと信ずる。  少年時代から抱き続けた俳優の夢を一度は叶えながら、スターの座には届かなかった彼が、キックボクシングという未開の世界の、前例のない表現者として捲土重来を期したことは、あくまでも想像の範疇ではあるが理解できなくもない。  そして、仕掛人たる野口修に対し「この人に付いて行くしかない」の意を強くしただろうことも、大いに納得がいくのである。 程なくして望外の大成功を収め、情況も刻々と変化するに至って、彼の心境にいささかの迷いが生じただろうことは想像に難くない。  自身の存在が大きくなればなるほど、現実との乖離は実直な彼を悩ませ、影を落としたはずだ。心を痛めたかもしれない。そんな彼をどうして責められようか。  しかしである。その一事を全面的に肯定することは出来ずとも、日本の格闘技界に希望の陽光を照らしたのは、まごうことなき事実だった。 「沢村さんに憧れてキックボクシングを始めた」と語った藤原敏男は、外国人で初めてタイ式ボクシングの王者に輝くという揺るぎない偉業を成し遂げた。それもこれも、沢村忠があの活躍を見せていなければ、実現しなかったことになる。  また、沢村忠がいなければ、キックボクシングはおろか、K-1をはじめとする、すべての立ち技格闘技は隆盛を迎えていないはずだ。それどころか、RIZINに代表される総合格闘技のビッグイベントも今の形で行われなかっただろう。これらのことを我々は見落としていないか。  併せて筆者は、前述の「ふたつのキック」には賛同しかねる。野口プロモーションの成功が誘い水となって萌芽した後発の競合団体も、「沢村的世界観」の延長線上に立脚していた時代があったのは、拙著でも詳述したように、隠しようのない事実だからだ。  キックボクシングに二つも三つもない。あるのは「その始まりにおいて沢村忠がいた。だからこそ定着し、今も続いている」という一つの事実のみではないか。(敬称略)
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