1986年10月に創刊され、30年以上の歴史を誇る格闘技雑誌『ゴング格闘技』が、秘蔵写真と共に過去5月にあった歴史的な試合や様々な出来事を振り返る。9回目は1991年5月、24日、東京・後楽園ホールであった日本格闘技史上最大の不祥事である“選手替え玉事件”。
(写真)普通に日本に呼ばれての試合だと思っていたベンジャミンは張り切って打ち合いに出た 80年代後半から90年代前半にかけて、MA日本キックボクシング連盟は豪華な外国人選手を招へいしての国際戦を連発。オランダやタイの超一流選手が参戦しての大会は、まるで後年のK-1 WORLD MAXのようだった。
1991年5月24日に開催された『山木ジム6周年記念興行』でも豪華な一戦が組まれた。日本で人気を博していた重量級ムエタイ戦士のチャンプア・ゲッソンリット(タイ)とオランダの実力者でタイでも活躍していたオーランド・ウィット(オランダ)の一騎打ちである。ウィットは来日が待たれていた未知の強豪でもあった。
また、この試合は新設されたWMK(ワールド・マーシャルアーツ・キックボクシング)世界ヘビー級王座決定戦として行われることに。
(写真)圧倒的な技術の差を見せてチャンプアがKO勝ちした しかし、事件は起こった。「あいつはウィットじゃない」同国人の応援のため観戦に訪れていたピーター・スミット(極真空手出身のキックボクサー)は、リング上で選手紹介のコールが告げられるや、驚きを示した。
パンフレットを開いてみると、確かに本物のウィットの写真とリング上の選手の顔を見比べると同じ黒人選手とはいえ、顔は似ても似つかない。リングサイドの記者席からも「あれ違う選手じゃない?」との声が上がり始めるが、試合開始のゴングは鳴った。
サウスポーのチャンプアに、オーソドックス構えのその選手に技巧ぶりは感じられない。ローキックを先手に得意のミドルキックを蹴っていくチャンプア本来の攻撃は見られず、相手をすっかりナメ切ったようなパンチ主体のラッシング。その選手はフックを浴びて早くも後退する。
2Rに入ってもチャンプアのフック、ローキックで大苦戦。フックで逆襲に転じようとするも、結局一度ダウンを喫した末に何の見せ場もなくカウンターのパンチでマットに沈んだ。2R1分18秒だった。
ウィットはNKBB認定オランダ・スーパーミドル級王者であり、1年前にロンドンでチャンプアと白熱の名勝負を演じたブル・ファイターのはずだったが…。
(写真)パンフレットに掲載されていた本物ウィット(左)と試合をしたベンジャミン(右)。明らかに別人。 控室でチャンプアにKO負けを喫した選手を直撃すると、「私はオーランド・ウィットではない。マーロン・ベンジャミンだ」と、やはり別人であることを告白した。24歳のオランダ人で、戦績は12勝(11KO)1分で無敗だとのことだが、オランダでプロと公認されるAクラスでは4戦目という全くのグリーンボーイ。
当初チャンプアと対戦が計画されていたのは、スミットに勝利して脚光を浴びたルック・フルヘイヤーだったが、同時来日予定だったラモン・デッカーが4月19日にKO負けを喫し、所属ジムの会長が両選手の来日をキャンセル。そこでウィットに白羽の矢が立ったはずだった。
「来日が正式に決まったのは試合1週間前」とベンジャミン。さらに「オーランド・ウィットは今日、ドイツのハンブルグでファイトしているはずだ」と本物のウィットのスケジュールまで把握していた。なんと本物ウィットは同じ日にドイツで試合をしていたのである。
(写真)チャンプアは相手変更を聞かされていたので、試合後の控室が大騒ぎになっていた意味が分からなかっただろう 一方、チャンプアは「別人と知らされ、承知して試合に臨んだ」と証言。主催者側もビザ発給に際し、ベンジャミンの確認が必要で「知らなかった」は理由にならない。
全員が事実を知っての「替え玉劇」。最後まで知らされなかったのは入場券を買って観戦したファン、そしてマスコミだった。
後日、主催者の当時の連盟代表は非を認めて謝罪。改めてチャンプアとウィットの対戦を組むと約束したとはいえ、2度とあってはならない替え玉事件であった。