カーマン(左)に右ミドルキックを見舞うチャンプア 写真/澁澤恵介
1986年10月に創刊され、30年以上の歴史を誇る格闘技雑誌『ゴング格闘技』が、秘蔵写真と共に過去4月にあった歴史的な試合や出来事を振り返る。12回目は1990年4月にタイ・ルンピニースタジアムで行われた「タイvsオランダ4対4全面対抗戦」でのチャンプア・ゲッソンリット(タイ)vsロブ・カーマン(オランダ)の一戦。
当時、格闘技王国と呼ばれていたオランダ。強豪キックボクサーを続々と輩出しており、タイとの対抗戦は両国およびヨーロッパにも衛星中継されるなど人気コンテンツとなっていた。
その中でも人気・知名度共にトップクラスだったのが“欧州の蹴撃王”ロブ・カーマンだった。日本でも1987年11月の初来日以来、人気を誇っており、1989年9月の全日本キックボクシング連盟の日本武道館大会では、前田日明との異種格闘技戦で有名となったドン・中矢・ニールセンをKOしている。
首相撲で転倒したカーマンにチャンプアは倒れるふりをして顔面へヒザ
一方、チャンプア・ゲッソンリットは1989年11月にUWFの東京ドーム大会に初来日。以後、キックボクシング団体で試合を行い連戦連勝で同じく人気外国人選手となっていた。その両者がムエタイの総本山であるルンピニースタジアムで激突。両者の対戦成績は1勝1敗で、文字通りの決着戦を迎えたのである。
戦前のカーマンvsチャンプアの予想賭け率は五分五分だった。24歳のチャンプアを“老兵”とする英字新聞『ザ・ネイション』、また有力スポーツ紙『デイリーニュース』は「2kg以上の減量を強いられるカーマンのスタミナダウンが響くだろう」と、連日各紙の誌面が世紀の一戦でにぎわった。
契約ウェイト77kgへ、減量苦が懸念されたカーマンは当日午前8時からの計量でリミットを僅かにオーバーしたが2度目の試みでパス。チャンプアも1度目の計量で僅かにオーバーするもやはり2度目でクリアーした。
使用グローブは、カーマンからの「タイ製は自分の拳には小さすぎる」と、ムエタイでは異例のメキシコ製レイジェス社10オンスグローブの採用をプロモーターのソンチャイ氏に要請。チャンプア側もこれを承諾。パンチ力の生きるメキシコ製グローブ採用で、カーマン有利かと思われた。
試合は対抗戦4試合の2番目に組まれた。ルンピニースタジアムは超満員札止めの観客で埋め尽くされ、興奮、歓声、欲望、ナショナリズム…あらゆるものが40度を超す超過熱のリング上に交ざり合った。
22時40分、戦いのゴングは鳴った。「勝負は“ムエタイルール”が全てを支配している。早い回のKOしか勝つ道はない」と戦前に語っていたカーマンだったが、1Rと2Rは静かに進んだ。
激戦を終えたばかりの両者だが、笑顔で健闘をたたえ合った
戦況が一変したのは3R。チャンプアが執拗な首相撲攻勢に転じたのだ。蜘蛛の巣にかかった昆虫のように振りほどくことができないカーマンは、スタミナをみるみるうちに削り取られた。チャンプアは相手の長いリーチの隙間を突き、ヒザ蹴りをカーマンの脇腹にぶつける。そのたびに場内からは大きな掛け声があがる。
4R、すっかり勢いづいたチャンプアは右ミドルキックを中心に蹴りまくる。カーマンもロー、パンチで応戦するが口を大きく開け、パワーダウンから突破口は開けず、再び首相撲になると腰砕けで転倒してしまう。
5Rに入っても奇跡が訪れる気配はない。カーマンは既に決定打を放つ力がなく、キックが交差した際には右スネを切り、流血するなど敗色は濃くなるばかり。
チャンプアが大差の判定勝ちを飾り、ファイトマネーとは別に賞金10万バーツを獲得。一方のカーマンは激戦を物語るかのように控室で嘔吐を繰り返した。
タイvsオランダの対抗戦も、ラモン・デッカーがナンポン・ノンキーパーユットに敗れ、マイケル・リューファットがカルハート・ソー・スパーワン、ジョアオ・ビエラがコーバーン・ルークヂャオメサイトーンに敗れてタイ側が全勝。ムエタイが最強ぶりを発揮した。