1986年10月に創刊され、30年以上の歴史を誇る格闘技雑誌『ゴング格闘技』が、秘蔵写真と共に過去4月にあった歴史的な試合や出来事を振り返る。4回目は1993年4月30日に東京・国立代々木競技場第一体育館で開催された第1回の『K-1 GRAND PRIX’93~10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント~』の最終回。
世界トップクラスの8戦士が無差別級のトーナメントを1日で争う第1回の『K-1 GRAND PRIX’93~10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント~』。そのフィナーレを飾る決勝戦に勝ち残ったのは、トーナメントへの出場が最後に発表され、本来はクルーザー級がベストウェイトであるシカティックとホーストであった。
誰も予想できなかったこの顔合わせは、1989年10月にアムステルダムにおいて実現している。初対戦ではホーストが頭突きを仕掛け、これに怒ったシカティックが組み付いてのヒジ打ちを連打。レフェリーのブレイクを無視したため、シカティックの反則負けとなったという(シカティックの談話より)。
4年後の再戦、勝者は10万ドルという破格の賞金を手にすることができる。両雄は最高の舞台で“真の決着戦”を迎えたのだ。
序盤のペースを握ったのはホーストだった。伸びのある左ジャブでシカティックの動きを止め、左フック、右ボディブローにつなげる。長いリーチから次々とパンチが繰り出され、シカティックはヘッドスリップを駆使してディフェンスするが、蹴りにパンチを合わせられて戸惑い気味だ。
ピーター・アーツ、モーリス・スミスと優勝候補2人を撃破したホーストが、このまま優勝を飾るのか――という雰囲気が会場のあちこちから漂い始めた。
と、その直後、大振りの右フックで切り込んだシカティックは続けざまに左フック。ホーストも同じ左フックを繰り出して相打ちとなったが、バランスを崩してしまった。そこへ、シカティックが追撃の右ストレート。“伝説の拳”でテンプルを直撃されたホーストは力なくあお向けに倒れ、即座にストップが宣せられた。
「ウォーッ!」両手を上げ、天を仰ぐシカティック。祖国クロアチアから応援に来た12人の同国人とチャクリキ勢が一斉にリングに飛び込んできた。まさに劇的な幕切れだった。
以下、シカティックの優勝者インタビュー。
――今の感想は?「私のキャリアの中でも最高の試合と結果を残せたよ」
――空手のトーナメントに出場経験があると聞いたが?「アマチュアのフルコンタクト空手のトーナメントだ。初めて出場したのは18歳の時で、ヨーロッパ王者に6回、世界大会では2度優勝している。だから今回のトーナメントにも不安はなかった。空手、テコンドーを学び、キックボクシングは14歳から始めた」
――空手、キックボクシング、ムエタイの中で一番好きなのは?「ムエタイだ。ムエタイは最も危険で何でも許されるところがいい。特にヒザ蹴りがあることが自分に合っていると思う」
――今回は全てパンチによるKO勝ちだったが?「確かにヒザで勝ったことは何度かある。だが、私の武器の中で何が一番強いかと問われれば、それは右のパンチだ」
――56勝(54KO)2敗1分(当時)というレコードの中で最も強かったのは?「それはドン・星野・ウィルソン(WKA世界ライトヘビー級王者=当時)だ。彼は非常に頭が良く、上手く戦う。私は6ポンド落として彼と戦ったのだが負けてしまった」
――今回戦ったホースト、佐竹、チャンプアの中で特に印象に残ったのは?「佐竹との試合だ。彼のキックは一番効いた。体重も重かったしね。だが、特に注意したということもなかった」
――その年齢でこれだけの強さを誇る秘密は何?「私は朝8時に起きて、3時間練習し、昼食の後で2時から5時まで眠る。6時から9時まで再び練習し、11時には眠る。そして酒もタバコもやらない。もちろんディスコに行くこともないし、女の子とも遊ばない(笑)。規則正しい生活こそが強さの秘密さ」