1986年10月に創刊され、30年以上の歴史を誇る格闘技雑誌『ゴング格闘技』が、秘蔵写真と共に過去4月にあった歴史的な試合や出来事を振り返る。3回目も1993年4月30日に東京・国立代々木競技場第一体育館で開催された第1回の『K-1 GRAND PRIX’93~10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント~』。
10万ドルという格闘技では破格の優勝賞金が懸けられ、世界トップクラスの8戦士がトーナメントを1日で争う画期的な形式で開催された第1回の『K-1 GRAND PRIX’93~10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント~』。
この歴史的大イベントに、日本代表として出場したのは空手出身の佐竹雅昭と後川聡之(共に正道会館所属)だったが、後川はモーリス・スミス(アメリカ)に敗れ1回戦で姿を消している。否応なしに期待は佐竹に集まっていた。
1回戦で佐竹はトド・ハリウッド・ヘイズ(アメリカ)とほとんど打ち合うことなく右ローで2RにKO勝ち。ダメージを最小限に抑える戦いを展開し、空手経験からトーナメント慣れしているところを見せつけた。
迎えた準決勝。対戦相手はブランコ・シカティック(クロアチア)。まだインターネットがない時代に“未知の強豪”としてキックボクシングマニアの間では知られていた存在だったが、前年の1992年3月にKICK世界ヘビー級王者デニス・アレクシオと対戦し、反則パンチで戦闘不能となり、2Rノーコンテストになった試合が伝えられたぐらい。すでに38歳という年齢でもあり、ほぼノーマークに近い存在であった。
1R、佐竹は上体を小刻みに揺らしながら左ジャブ、右ロー、シカティックをロープ際へ押し込みヒザ蹴りを連打する。だが、歴戦の強者シカティックは勢いよく前進してくる佐竹に左フック、ワンツーを浴びせ、左アッパーから右ストレート。佐竹はたまらず腰を落としたが、これはノーダウン。
2Rも同様にシカティックの攻勢が続き、ワンツー、左右フックと強打を次々とヒットさせる。佐竹はガードしながら左右フックで反撃するが、単発のためクリーンヒットせず苦しい展開に。
運命の3R。“このままでは勝てない”と思ったという佐竹は場内の「佐竹コール」を背に受けて猛然と前進し、左フックを振るうがシカティックの首相撲(第1回はOKだった)に捕まり思うように攻められない。そして、佐竹の左オーバーハンドにシカティックがカウンターの左フック。左目を直撃された佐竹は後方へ崩れ落ち、世界最強の夢が砕け、プロ転向後初のKO負けを喫した。
「言い訳はしたくない。もう一度、鍛え直します」鼻血を出し、左目が腫れあがった姿で佐竹は雪辱を誓った。
その後のK-1は佐竹が世界最強を目指すストーリーと、第1回大会で一気に名前が知られるようになった外国人選手たち、さらにはこの時点でのシカティックやホーストのように未知なる強豪たちが続々と集結していき、1997年には三大ドームツアー(ナゴヤドーム、大阪ドーム、東京ドーム)を実現させるほど大きくなっていく。今思えば、この第1回GPで佐竹が優勝していたとすれば、K-1の歴史は変わっていたかもしれない。