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インタビュー

【UFC】殿堂入りしたフランキー・エドガーが語っていたこと「ビッグガイである必要はない、ビッグハートを持っていれば」

2024/07/04 16:07
 2022年11月の『UFC 281』で引退を表明した元UFC世界ライト級王者のフランキー・エドガー(米国)が「UFC殿堂入り」し、6月29日の『UFC 303』で式典とスピーチが行われた。そのスピーチとメディアインタビューでのエドガーの言葉を紹介したい。  キャリア17年で36戦のベテラン、フランキー・エドガーは、MMA24勝11敗1分・UFC18勝11敗1分という戦績を残し、UFC殿堂入りを果たした。  まだUFCで最軽量級だったライト級からフェザー級、バンタム級と3階級で戦い、2007年2月のUFCデビューからBJ・ペン、グレイ・メイナード、ベンソン・ヘンダーソン、ジョゼ・アルドらと幾度も死闘を繰り広げてきた。  通算試合時間はUFC史上2位の7時間57分10秒。「トロントの『UFC297』に解説で参加していたとき、スクリーンに自分が映し出されて、自分が殿堂入りすることを知ったんだ。本当に驚いたよ。まったく知らなかった」というエドガーは、今回のラスベガスでの式典で、「光栄です。殿堂入りを果たした人たちは、このスポーツの名士と言ってもいい人たちばかりで、その人たちの中に名を連ねるということは……ただ、殿堂入りを目指すことが私の使命だったわけではないと思う。私はただこれをやりたかった。楽しかった。この世界に入ったらチャンピオンになりたいと思ったし、常に勝ちたいと思った。そうして得た称賛はたいてい殿堂入りにつながる。だから、使命は達成されたと思う」と、語った。  また、「私はUFCに心血を注いできた。UFCに入ったとき、私は5勝0敗(※公式戦)だった。私のキャリアはUFCにあった。このようなキャリア、このような人生を歩むとは思ってもみなかったけど、そのためにとても努力した。こうした評価を得ること、そしてこのういった状況で隣にいる人たちに認められることは、すべてを意味する。永遠に記録に残るんだ。とても意味のあることだ。私はあまり感傷的なタイプじゃない。みんな『ベルトはどこだ?』って言うんだけど、ポッドキャストにアップして見栄えをよくしたりはするけど、高校時代のメダルを全部持っているような男じゃない。でも、『UFCの殿堂入り』は特別なことなんだ」と、その想いを語っている。 [nextpage] オールアメリカンになれず配管工に。TUF1でライバル校にいたコスチェックを見た  12歳からレスリングを始めたエドガーにとってのMMAの原体験は、『UFC1』だったが、それはまだ自身と結びつくものではなかったという。 「確か中学1年生のときに、仲間の家で『UFC1』か『UFC2』を見たことを覚えている。レスラーを応援し、ホイス・グレイシーという小柄な男が、これだけの大男を倒しているという事実に畏敬の念を抱いたものだ。でもその後、UFCは一時休眠状態になり、少しタブー視されるようになって、非合法化しようとする政治家もいた」  トムズリバーイースト高校でレスリングで州チャンピオンになり、2000年に卒業したエドガーはペンシルバニア州クラリオン大学で政治学の学位を取得。しかし、大学でのレスリング選手としての経歴は、輝かしいものではなかった。 「大学4年でレスリングを終えた時、オールアメリカンになれなかったし、“ブラッドラウンド”(※勝てばオールアメリカンの試合)で負けてしまった。私はかなりショックを受けていしたし、まだそこから抜け出すための苦悩も残っていた。それでも成功したかったんだと思う」  レスリングで目標を達成できなかったエドガーだが、その同じ年に運命が介入した。2005年、格闘技リアリティ番組『The Ultimate Fighter』(TUF)が放送され、UFCは一気に人気を獲得していく。  エドガーは最初のシーズンの展開を見守る中で、見覚えのある顔に気づいた。ライバル校でレスリングをしていた選手が『TUF1』に出場していた。 「レスリングの後、いつも何か特別なことをしたいと思っていた。『ジ・アルティメット・ファイター』の最初のシーズンがスパイクTVで放送されたのは大学4年のときで、仲間たちと座って見ていたのを覚えている。そこにジョシュ・コスチェックがいた。コスチェックはエディンボロ大学でレスリングをしていてオールアメリカンになっていて、私は(同じペンシルベニア州の)クラリオン大学にいたから、年に何回か彼らとレスリングをしていて、個人的に彼のことを知っていたんだ」  大学を卒業したエドガーは、翌週の月曜日から配管工として働き始めた。その翌日にはレスリング場に戻ってトレーニングしていた。そして地元には、MMAを取り組むのに必要なパートナーが身近にいた。柔術ではヒカルド・アルメイダ、そして絶対的に必要なボクシング。エドガーはあるコーチに自身のミットを持ってもらうように頼み込んでいる。 「MMAを始めるまで、その類のトレーニングはしたことがなかった。ただ、知っている通り、優秀なボクシング・コーチのマーク・ヘンリーがいた。彼は私のボクシング・コーチとなり、最終的にはヘッド・トレーナーになって、私のキャリアにとても大きな影響を与えた。彼と私の好きなファイトスタイルのせいで、打撃に少し傾倒することになったんだ」 [nextpage] UFCで勝った月曜日も仕事に行かなければならなかった  2005年7月にブロンクスの『UCL』(アンダーグラウンドコンバットリーグ)でエリック・ウレスクとMMAデビュー戦を戦い、1R TKO勝ち。60ドル(約9千円)のファイトマネーを手にしたエドガーは、その金額をゆうに超える眼窩骨折の手当をしながら、配管作業をしていた。  アンダーグラウンドでは、階級も無くドクターもおらず、「基本的にルールがない1Rの試合」でレスラーのエドガーは頭突きを駆使して勝利した。当時は「勝つための良い方法だったよ」と笑う。  2005年10月に正式にプロに転向し、『Ring of Combat 9』で2度目の勝利と初の公式戦勝利を得た。彼は2007年2月にUFCに参加する前に、4つの団体で6試合を勝利している。  UFC前の最後の試合は『Reality Fighting 14』でのジム・ミラー戦だった。5分3Rのライト級タイトルマッチでエドガーが判定勝ち。  その試合を「“カリフラワー”の一部を蹴飛ばされた。ブロックの上を蹴りが抜けて何かが飛んでいって、それは私の耳の一部だった」と振り返る。  死闘のなかでベルトを巻き、TUFシーズン5のトライアウトに参加するも落選。しかし、その1カ月後の2007年2月『UFC 67』でUFC初参戦を果たし、ユライア・フェイバーに勝利するなど8連勝中だったタイソン・グリフィンに3-0の判定勝ちを収めた。「ファイト・オブ・ザ・ナイト」の激闘だった。  軽量級中心のWECがUFCへ統合されたのは2010年。2007年当時、UFCで最軽量はライト級だった。 「私はずっとUFCに行きたかった。私にとってUFCはMMAスポーツの頂点だったから、他の団体には行きたくなかったんだ。SpikeTV、Fox、ESPN、リーボックとナイキが絡んできた。今では、アメリカの4大スポーツと肩を並べられるようになったと思う。  MMAを始めたとき、MMAに出会ったような気がした。UFCに入ったばかりの頃は、ロレンゾ・フェティータ(CEO)が誰かも知らなかった。彼は私の試合後に話しかけようとして、最初は追い払ったんだ。彼らは『おい、それはダメだ。ロレンゾだぞ』って。私はまだ経験が浅かったんだ(苦笑)。私は配管工として働いていて、月曜日も仕事に行かなければならなかったから。MMAが楽しくて、上手くなっていって、そしてその味を知ったら、すぐにチャンピオンになりたかった。でも、殿堂入りは考えていなかった」  UFC3戦目、生まれ故郷のニュージャージーでスペンサー・フィッシャーに勝利した後、エドガーはようやく配管工の仕事からフルタイムのファイターになっている。 [nextpage] BJ・ペン、メイナード、ベンヘンとの死闘──「ただ立ち去るつもりだったけど」  エルメス・フランカやショーン・シャークといった強敵を破り、2010年にBJ・ペンが持つ、UFC世界ライト級王座に挑戦するチャンスを得た。連続防衛を続けるペンに対し、エドガーは+620という圧倒的なアンダードッグとしてオクタゴンに向かった。 「緊張と不安と興奮でいっぱいだった。当時のBJにはオーラがあった。文字通り、誰も彼に戦いを挑もうとはしなかった。だから、トレーニングキャンプでは、“彼に勝てる”と自分を納得させなければならなかった。そして、試合の夜には“彼を倒せる”と信じていた。あのタイトルを獲得したことは、私のキャリアのピークのひとつになった。ベルトを腰に巻くことは特別なことだ」  妊娠8カ月の身重の妻も同行したアブダビでの5Rに及ぶスリリングな戦いの末、彼は驚異的な番狂わせを繰り広げ、判定3-0で勝利した。 ペンとの再戦でタイトルを防衛後、エドガーは2011年1月1日にラスベガスでもう一人の盟友、グレイ・メイナードと対戦した。その試合では、1Rにダウンを奪われ、KO負け寸前まで追い詰められるも驚異的なリカバリーを見せ、テイクダウンを奪い返して、ドロー。9カ月後のラバーマッチでも序盤にダウンを奪われたエドガーだが、4Rに右フックでダウンを奪い返しKO勝ち。3度目の王座防衛に成功している。 「私とグレイ・メイナードとの間のヒストリー、ノックアウト──本当に歴史に残る3部作のあのような力強いフィニッシュは、私のキャリアの中でも上位に入ると思う」 そして、2012年2月、さいたまスーパーアリーナでのベンソン・ヘンダーソン戦の死闘と再戦。ジョゼ・アルドとのフェザー級タイトル争い、マックス・ホロウェイとのチャンピオンシップ、2020年のバンタム級転向など、3階級の強豪たちと戦ってきたが、マルチディビジョン王者には届かなかった。 「私のチームの多くは、私がそこに座って『ウルフ・オブ・ウォールストリート』のように『私は去らない、と言うだろう』と言うんだ。でも、私は『引退する』なんて言う男にはなりたくなかった。私はただ立ち去るつもりだった。でも、そうなる前に『引退する』と宣言することで、自分に責任を持たせることができるし、人生の次の章に進まなきゃいけないと思うんだ」  2022年11月12日、引退試合となった『UFC 281』でクリス・グティエレスと対戦し、左ヒザ蹴りで1R KO負け。オープンフィンガーグローブを置いた。 [nextpage] ビッグガイである必要はない。ビッグハートであるために  エドガーは「カムバックは考えていない」という。 「引退はしたくなかったけど、その選択をした。“今がその時だ”と思ったんだ。他のことで忙しかったからね。もちろん、まだ自分の中に闘志はある。決して消えることはない。70歳になっても、あのクソみたいな気持ちは消えないよ」  MMA36戦24勝11敗1分。UFCでの「ファイト・オブ・ザ・ナイト獲得2位」、「チャンピオンシップのトータルファイトタイム6位」という記録以上に、自身に訪れた多くのチャンスに感謝している。 「子どもの頃は、自分がこれまで訪れたすべての場所に行くチャンスがあるとは思ってもいなかった。ブラジルに何度も行き、フィリピン、韓国、日本、アブダビ、ロシアでも戦った」  記者会見や計量で押し合いへし合いすることも叫ぶこともなく、エドガーは常に拳に語らせることに満足していた。歴戦のなかで身体に刻まれた傷は少なくない。鼻を折った回数は数え切れない。鼠径部と背中の手術を受け、股関節置換手術も数回受けた。これらはすべて日常の仕事の一部だった。 「ファンが私の戦いを楽しんでくれたことが嬉しい。私が全力で戦うのを見て、ファンも楽しんでくれると思って戦っていた。私の試合のどれを選んでも、私がどんなタイプのファイターか分かると思う。UFCでの最初の試合は、私のタイプ、戦い方、ハートがよく表れている。そしてグレイ・メイナードとの試合はダメージを負いながらも、3戦目で彼をノックアウトして勝つ方法を見つけた。あれは間違いなくいい試合だった。私は一方的に戦うだけでなく、全力を尽くすんだ」  いつも自身より大きな男と戦ってきた。そのキャリアに後悔はないという。 「私のキャリアを振り返って、本当に後悔はない。もちろん、何人かのジャッジのスコアが私の方に来れば良かったとも思うけどね。もしかしたら3度、4度、5度と王座を防衛する選手になれたかもしれないけど──そういうものなんだ。敗戦や苦難があったからこそ、今の自分がある。それに感謝しなければならない。それが旅の一部なんだ。立ち上がる限り、何度倒されてもいい。“最も大きな男”である必要はないんだ。“最も大きなハートを持ったいい男”であるために」 [nextpage] 地元が舞台の映画に出演、アイアン・アーミー・アカデミーを開設  戦いから離れて「ダウンタイムは好きじゃない」という。2023年には映画『The Bastard Sons』に出演した。  脚本家で監督のケヴィン・インタードナートがエドガーのポッドキャストのゲストに登場したときに、この話が進んだという。キャストの多くがニュージャージー州出身で、同州の文化を描写した作品の主要キャストとして、俳優業に挑戦した。この映画は、Amazon Primeで視聴が可能だ。 「自分でも予想していなかった。ケヴィンは地元の出身で、同じサークルの知り合いなんだ。彼はレスリング経験があって軍に所属していたからゲストに呼んで、この脚本のことを話してくれたんだ。『小さなカメオ出演をしたいか』と聞かれて、友人のロジャー・マシューズと私は2人とも『イエス』と答えたんだけど、数週間後に本当に『役がある、興味はあるか』と言ってきたんだ」  さらに、映画の主な役の一人が突然降板したため、インタードナートはエドガーにより重要な役割を担うチャンスを与えた。 「ケビンが私を信頼してくれたので、真剣に取り組んだよ。すべてのセリフを研究し、各シーンに備えて準備を整えた。MMAのトレーニングと規律に関する経験が役に立ったと思う。私は決して芸術的なタイプの子供ではなかったし、未知の世界だったけど、ケビンはとても助けてくれた。これが私にとって初めての演技だったけど、とても気に入ったので、もっと楽しみたいと思ったよ」  そして、今でも彼はトレーニングを続けているという。それは新たなエドガーの居場所だ。 「現役と同じようなスケジュールだよ。朝はジムにいるし、夜は子供と練習したりする。ニック・カトーネ(UFCミドル級ファイター)のジムで地元の選手たちの練習を手伝っているんだ。それに、トムス・リバーで自分のスクールを開くんだ。子供たちを追いかけるだけで忙しくなるのは間違いない。スピードは落としていない。今でもトレーニングは続けているよ」 『アイアン・アーミー・アカデミー』と名付けられた彼の新しいジムは、エドガーの次の大きなプロジェクトで、助けを求めるファイターやレスラーを指導するが、UFCファイター育成というより、自身がそうであったように、子供たちが格闘技によって人生を豊かにするきっかけになってほしいという。 「アイアン・アーミー・アカデミーは私のコミュニティのための学校なんだ。子供たちの人生を変えたい。レスリングや柔術が自分自身を含め、多くの人たちにしてきたことを目の当たりにし、自分のコミュニティの子供たちに選択肢を与えること、それが私の目指すことであり、大人たちや多くの人にとってもグラップリングとそれに付随するコミュニティは役に立つと思う。私の人生を変えてくれた。私はそれを提供したいんだ。  もちろん、トップを目指すようなファイトチームが自然に、有機的に起こるのであれば、私はそれに大賛成だ。私の息子もいつかは格闘技をやりたいと思うかもしれない。彼を育て、彼のためにチームを作る手助けができればいいと思う。今は、プロのためではなく、地域のため、学生のためのジムという意味合いが強いんだ」 “ジ・アンサー”の異名を持つ男の「UFC殿堂入り」後の答えは、決まっているようだ。 「引退して、スポットライトを浴びることがなくなって落ち込んだりする男の話をよく聞くだろう。私はスポットライトを浴びるような男じゃなかったけど、落ち込んだり憂鬱になったりする方法を知らないんだ。そんなことを考えている暇はない。子供たちを追いかけ、人生の次の冒険を追いかけるのに忙しすぎる。そうすることで、落ち込まずにいられるんだ。“人生の次の部分”を楽しんでいる。落ち込む理由なんてない。白帯を取り直すようなものだ。登るべき新しい山がある。またひとつ、モチベーションが上がったよ」
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