1993年11月12日、米国コロラド州デンバーのマクニコルス・スポーツ・アリーナで開催された『UFC 1: The Beginning』に出場した、元プロボクサーのアート・ジマーソン(米国)が、61歳で死去した。ジマーソンの家族が8日(日本時間9日)に亡くなったことを9日(同10日)にSNSで公表した。
米国ミズーリ州セントルイス出身のジマーソンは、1985年4月にプロボクシングデビュー。1990年4月に、アンドリュー・メイナードとNABF北米ライトヘビー級王座をかけて対戦するも、3回TKO負け。その後15連勝し、1993年11月の『UFC 1』に出場した。
それは、体重無差別、1R5分の無制限ラウンド、ブレイク&判定決着無し、反則は目潰しと噛みつきのみで頭突きや倒れた相手への蹴りも許されたノールールファイト(ノー・ホールズ・バード)だった。
1回戦でジマーソンは、この大会のプロデューサーであるホリオン・グレイシーの実弟のホイス・グレイシーと対戦。ノールールを想定してトレーニングを積んで来た柔術衣姿のホイスに対し、ジマーソンは左手にのみボクシンググローブを着用、利き手の右手には手首と親指の付け根にだけバンテージを巻いたベアナックルで、ボクシングシューズを履いて、ケージの中に入った。
ワンデートーナメント第1試合では、オランダの喧嘩屋ジェラルド・ゴルドーが米国の元幕下2枚目の力士テイラ・トゥリ(高見州大吉)を顔面蹴りでTKO。
2試合目はケビン・ローズイヤーとジーン・フレジャーのストライカー対決で、ローズイヤーが右の打ち下ろしの連打で倒れたフレジャーに、ケージの上段を掴んでの踏みつけ連打でTKO。
凄惨な試合が続くなか、ジマーソンは、第3試合で初めて未知の“グレイシー柔術”と対峙した。
試合は、サウスポー構えのホイスが右の関節蹴り、前蹴りから。それを半身でかわしたジマーソンに、ホイスはじりじりと圧力を強め、関節蹴りのフェイントから低いダブルレッグ&小外がけでテイクダウン。
そのままサイドポジションを奪い、すぐさまマウント。下のジマーソンは両脇を差してホイスに抱きついてブリッジも狙うが、上で返させないホイスは、右腕を枕に巻いて肩口の道衣で下のジマーソンの息を塞ぐと、ジマーソンは堪らず右手でマットをタップ。レフェリーが気づかず、計6度のタップに、ホイスが「タップした」とレフェリーに告げ、レフェリーがジマーソンに確認し、試合は決した。
フィニュシュは今でいうスマザーチョーク。この試合で世界は、1対1の“何でもあり”でポジショニングを駆使した、柔術の戦いを初めて目撃した。
まだ、MMAの練習方法も勝利の方程式も未開だった頃、MMAですらなくヴァーリトゥードだった時代に、「2人がケージの中に入って、1人だけがケージの外に出て来る」と言われた“決闘”を戦ったジマーソンは、晩年の動画で、『UFC 1』のことを振り返っている。
「友人を通じてこのトーナメントのことを知った。当時、本当に人気があったゲームの『ストリートファイター』で、あのボクサーがみんなをノックアウトしていたから、『この選手たちが私に勝てるわけがない』と思ったよ」と笑う。
しかし、オクタゴンのストリートファイトは、ゲームとは異なっていた。
「最初の2試合を見たが、あまりに野蛮で、私のマネジャーが文字通り席を立って、『もうここを出よう……君には家族がいるんだから』と言ったほどだった」
勇気を持ってオクタゴンに向かったジマーソンは、ホイスの護身をベースとしたダメージを負いにくい戦いゆえに、自身も大きな怪我なく完封負け、ケージを降りた。
UFCでの戦いは、この1戦のみ。実は、1994年以降もジマーソンはボクシングを戦い、2002年までリング上で戦っている。2002年10月には、WBFスーパークルーザー級王座に挑戦もTKO負けで悲願の戴冠はならず。2022年11月の試合を最後にグローブを置いた。
引退後、非営利団体「ワン・グローブ財団」を設立し、後進を育成してきたジマーソンは、1993年の数奇な試合の顛末をこう語っている。
「当時の主催側(※WOWプロモーションズとSEG)は資金繰りを懸念していて、ファイトマネー代わりに、会社の12%の株を持ちかけられたんだ。とても野蛮でクレイジーだと思ったよ。私のマネージャーは弁護士だったから、『現金を受け取って逃げよう』って。私は株の代わりに、前金2万ドルを選び、オクタゴンで戦った」
それから30年。破綻の危機に瀕していたSEGを2001年1月に、ロレンゾ&フランク・フェティータ兄弟とダナ・ホワイトが買収。ズッファ社の懸命な運営により、ジ・アルティメット・ファイターで人気を得て、Endeavorが主催する現在までのことは、また別の話だ。
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ジマーソンのことを多くのMMAファンが知らない・忘れ去ったなか、近年、彼はカリフォルニアで現在のスーパースターから記念撮影を頼まれたという。
「カリフラワーの耳をした男が見えたので、近づこうとしたら、ボディーガードが『下がってください』と言う。私が名刺を渡したら、その男は『アート・ジマーソン! ああ、なんてこった! 写真を撮ってもいいですか?』と目を輝かせたよ」
プロボクシングも戦ったコナー・マクレガーは、先達の戦いを知っており、「片手グローブの男」に敬意を示したという。
「アートは神、家族、そしてボクシングへの愛で知られていました。彼を知る者全員が彼を深く惜しむことになるだろう」と、家族は、ジマーソンを追悼している。