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インタビュー

【KNOCK OUT】7・8新宿で引退を迎える炎出丸ラストインタビュー「僕は一番目立つアカレンジャーじゃないけど、僕には僕の役割があるなと」

2023/07/07 14:07
【KNOCK OUT】7・8新宿で引退を迎える炎出丸ラストインタビュー「僕は一番目立つアカレンジャーじゃないけど、僕には僕の役割があるなと」

7月8日に現役引退を迎える炎出丸(C)KNOCK OUT

 2023年7月8日(土)東京・新宿FACE『MAROOMS presents KNOCK OUT-EX 2023 vol.1』にて、引退記念エキシビションマッチと引退セレモニーを行う元J-NETWORKスーパーバンタム級王者・炎出丸(クロスポイント吉祥寺)のインタビューが主催者を通じて届いた。

 炎出丸は2005年4月にプロデビュー。首相撲からのヒザ蹴りを得意とし、2013年3月にはJ-NETWORKスーパーバンタム級王座に就いた。2021年5月に加藤和也から勝利も、その後は3連敗。2022年9月の森岡悠樹戦が最後の試合となった。生涯戦績は33勝(5KO)31敗8分。40歳。


──引退セレモニーとエキシビションを目前に控えて、今はどんな心境ですか?

「頼まれたチケットの発送作業とか、『あ、これやるのも最後なんだな』と思いながらやってます。この作業って、お金の扱いなのでしんどいんですけど、最後だと思うとちょっと寂しくなりますね」

──最後の試合は、昨年9月の森岡悠樹戦になりました。ただ、その試合を最後と決めていたわけではなかったんですよね?

「そうですね。基本的に、常に勝つ気でリングに上がっているので。毎回毎回、『最後のつもりで』というプレッシャーを自分に与えはしますけど、負けるとは思ってないんですよね」

──では、その試合後に引退を決意した?

「試合から半年以上経って、宙ぶらりんになっていて。僕自身『何のために戦うんだろう?』というモチベーションを見出せなくなってる状態が続いていたところに、今回のセレモニーのお話をいただいたんです。そのままフェードアウトしてもいいのかなとも思っていたところに、こういうお話をいただけるというのはありがたいので、それがきっかけになりました」


──ではセレモニーの話が来て、最終的に引退を決めたということですか。

「試合する気はなくなっていたんですけど、『やりたいという気持ちが、どこかで湧いてくるかも』というのもあって、ランニングとか軽い練習だけはやってたんです。でも、そういう気持ちにもならなくて、そこにきっかけを与えてもらったというのはありますね」

──最後なのでキャリアについてお聞きしていきたいんですが、そもそも格闘技を始めたのは?

「最初のきっかけはケンカですね。当時、沖縄に住んでいて、争いごとはチョコチョコあったので、『身を守れないとまずいな』と思って、フルコンタクト空手を始めました。高校を卒業して、夜の街とかに遊びに出始めた頃、18歳とかですね。自分がケンカすることはないですけど、周りではそういうのも見聞きするので。実際に始めたら、『これを使ったらまずい』と思うようになりましたけど、格闘技を始めて気持ちが強くなったところはあったと思います」

──キックボクシングに移ったのは?

「空手を2年ほどやった頃、K-1 MAXで魔裟斗さんが出てきたりして、プロのキックボクサーが輝いて見えたんですよね。自分がなるとは全然思ってなかったですけど。それに空手は顔面がないので、『実際ケンカになったら殴られるかもな』と思ったのもあって。当時、今で言う地下格闘技の小さいイベントがいくつかあったんですよね。米兵が出てたりするような。そういうところに出たいと思ってキックの練習をするようになって、実際に出たら負けちゃったんですよ。それで悔しくて火がついて、のめり込んでいきました。それを1~2年ぐらいやって、プロデビューということになって」

──プロデビュー戦は……。

「2005年4月3日、大森ゴールドジムでの、MAキックの大会(原島祐治戦)でした。新人王トーナメントで延長で勝って、公式記録はドローになって。翌月も東京で試合したんですけど、交通費も出ないし、試合するたびに赤字なんですよね。本当にプロでやりたいんだったら東京の方が早いと思って、半年後には上京してクロスポイントに移籍しました」


──そこからは主にJ-NETWORKのリングで試合を重ねて、今知られるように首相撲主体のスタイルになったのはいつ頃でしたか?

「やっているうちに、何かに特化した方がいいと思ったんです。スタミナには自信があったんですけど、天才的な当て感があったりするわけではなかったので、愚直にやっていこうと。当時いたトレーナーさんがムエタイに精通していて分析力も高くて、僕に合ったスタイルを見つけてくれて。またムエタイでは、基本的に首相撲をメチャクチャやり込んで体を強くすればまず負けないから、という感じなんですよね。僕自身が地道にコツコツやるのが得意というのもあって、そこに特化していきました」

──それで首相撲が代名詞になっていったわけですね。

「自分としては、首相撲以外のこともコツコツ地道にやってたんですけど、ここから首相撲がメインになった感じなのかなと思います。それが僕にマッチしたというのもあるかもしれないし、自分でも『これだったら負けないな』とも思ったし、かなりやり込んだので。上の階級の選手でも首を折れるぐらいになったし、そこに持ち込めば楽でしたね」

──ただ、パンチャーの方が注目されやすい面はあると思います。そこは気にならなかった?

「気にはなりましたよ。でも、自分でもメンタル面をいろいろ勉強したりして、分かってきたこともあったんですね。ゴレンジャーって、一番先頭にいて目立つアカレンジャーだけじゃないですよね。いろんな役割の人間がいて成り立っている。僕は一番目立つアカレンジャーじゃないけど、僕には僕の役割があるなと。できないことをやろうとして勝てなかったら意味はないし、勝つための戦略としてやっていました。ただ、その首相撲を軸にしてパンチも出していったり、その中でどうやって見せ方を面白くしようかとか、そういうのはメチャクチャ考えてました」

──強みを持ちながら、ニーズにも応えようと。その中で2011年6月にはJ-NETスーパーバンタム級暫定王者に、そして2013年3月には同級の正王者になりました。タイトルにたどり着いた時はどう感じましたか?

「その頃は、同じ階級では負けない自信がありましたね。首相撲に自信があったので、これなら無双できるなと。でも、その頃から首に違和感を感じて、だんだん手に力が入らなくなって、ヘルニアという診断を受けたんです。そこから選手生活に狂いが出てきました。絶対的な自信を持っていたのが、首のケガによって全く勝負できなくなったので。その時には一度、引退を考えました」

──ただ、その後も何年も現役を続けられました。

「医師からは『総合の選手ほどひどくはないから大丈夫だよ』と言われていたし、負けず嫌いな性格なので、『だったらこのケガにも勝って、また前と同じ位置まで行ってやろう』と思ったからですね。ただ、今思い返すとケガの影響は大きくて、手の力も戻らなかったんです。これはスタイルを変えるしかないなと」

──また炎出丸選手のキャリアを振り返ると、やはり『REBELS』の存在は大きいですよね。2010年の第1回大会から出場していて。

「『REBELS』のリングには思い入れは強いですよね。対抗戦という形でいろんな他団体にも出させてもらいましたし。『REBELS』が始まったのはケガをする前だったので、自信もありました」

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