MMAから離れ、グラップリングのトップで戦ってきたことで前より良くなっている
──その間、グラップリングで活躍し、今年のADCCでは、1回戦でペルトゥ・テポネンをフェイスロック、2回戦で昨年準優勝者のヴィニシウス・フェレイラに2-0勝利。実に5度目のADCC世界大会準決勝進出を決めました。決勝でも前回大会99kg超級の覇者にして、今年の世界柔術も制している優勝候補筆頭のカイナン・デュアルチを相手に極めさせず、レフェリー判定で敗れている。MMAが出来なかった期間でグラップリングが進化したという部分はありました?
「それは確かです。これはおかしな話ですが、MMAを長いことやってなくて、久しぶりにやったら前よりも良くなっているんだ。自分の柔術、グラップリングを確固たるものと築き続けて、そしてさらにそこに特化した経験というものを経て、フィジカル的な意味で体つきもすごく良くなっているし、すごくハードにトレーニングして、自分のキャリアのなかでも一番タフな状態にあると言えるかもしれない、今が」
──柔術家として、組んでテイクダウンすること、下になっても上を取り返すこと、バックを奪うことでゲガール・ムサシに勝利しました。しかし、Bellatorはケージです。今回の危険なストライカーに対して、戦う舞台がリングなのは有利なのか、不利と感じますか。
「それは何とも判断はつかないところですが、というのも手も合わせたことがないし、お互いリングでは戦ったことがない。あ、彼はリングで戦っていないのかな? と思って言ったんだけど(※岩﨑もMMAはすべてケージ)。とにかく自分は初めてリングで戦う。これはやはり違いがある。ケージは、サークリングして逃げることができるが、リングは相手との距離をぐっと詰めてコントロールすることがより容易だと思う。だから、僕が思うに、とにかく間違いなく僕は“柔術ガイ”だから、自分の柔術を勝利のために用いるということは確かだ。だから、リングは自分がテイクダウンをしてグランド勝負をしようと思っているという点においては優位性があるかもしれないね」
──クラッチの部分ではいかがですか。
「ケージだと、つまり壁だから身体に手を回すことをブロックしますね。リングだとそれができる。ロープとロープの間に手が出たりするから。試合に備えてリングでスパーリングをしているんだけど、リングの恩恵みたいなものっていうのがあることも分かっている。とはいえケージで戦うのも好きなわけで、そこはどちらかが、というのは問題ないかな」
──この試合後、また日本で戦う可能性はありますか?
「日本で試合をするのが夢だったので、様子を見たいですね。まずはこの試合に集中している。もう結構おっさんになって、アラフォーだし、実は生まれたばかりの双子の赤ん坊を家に残して試合に来ているし、人生の次のフェーズとして考えていくことになると、今回は自分自身の夢を叶えるということがあったから。とりあえず今の試合に集中しして、たとえば良い機会が訪れてオファーがあればしっかり考える。とにかく今はこの試合が、人生最後の試合となってしまうかもしれない、という心意気で挑むつもりだ」
──大道塾、空道についてはご存知でしたか?
「対戦相手の所属だよね? いや、知りませんでした」
──大道塾はかつて初期UFCに挑戦しています。「UFC 2」で大道塾の市原海樹選手がホイス・グレイシー選手と道衣を着て戦い、片羽絞めで敗れた。ここにもロングストーリーがあります。
「あああ、そうなのか! だからイワサキは『リベンジ』と言っていたのだね、その意味が今やっと分かったよ! てっきり僕のことが嫌いなのかと(笑)」
──ロバト選手もグレイシー系でグレイシーウマイタからサウロ・ヒベイロという系譜ですよね。誰の黒帯になるのでしょうか。
「サウロ・ヒベイロ、そして今回、コーナーマンとして帯同しているシャンジ・ヒベイロです」
──戦極でも戦ったシャンジがコーナーマンなのですね。ところで、日本で戦うことが夢だった、というのは何がきっかけなのでしょうか?
「ウチは格闘一族でね。父親も格闘家で、お父さんとトレーニングして教わって育った。ルーツとしては、子供のころはジークンドーを学んでいたんだ。父はダン・イノサント師父の弟子の一人でね。ジークンドーを通じて、父親がブラジリアン柔術というものにたどり着いたというか、見つけた感じですね。グレイシー柔術というものと出会い、彼はグレイシー柔術についての情報をかき集めて、僕たちはヒクソン・グレイシーについてテープをかき集めたりしてすごく研究した。
そしてはるか前のことですが、1994年とかそれくらいに、日本のバーリトゥード・ジャパン・オープン(VTJ)に出ていることを知ったんだ。僕はヒクソンを見たことがなかったけど、彼のテクニックやエネルギー、彼の呼吸法や、あの冷静さというものが彼がすべての試合に勝利するときに現れていて、そうやって子供の頃からヒクソンの影響を受けていて、そしてPRIDEを見るようになって、日本がすごく好きな憧れの場所になったんだ。12歳くらいの頃から、いつか日本で試合がしたいなあと。あれだけの観衆がいるんだけど、すごい静かに観戦してフィニッシュに近づくと『うおお』『わあ』と歓声が沸く。だから、マーシャルアーツが生まれた場所だ、と思っていた。ブラジルでブラジリアン柔術をやり、日本でMMAをやるっていうのは自分の“やりたいことリスト”の中にあったもの。それらを叶えたんだ」