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【追悼】東孝・大道塾塾長が現役時代を振り返る「当時は優勝したら引退してしまうことが多かったけれど、私は引退しなかった」

2021/04/03 22:04
【追悼】東孝・大道塾塾長が現役時代を振り返る「当時は優勝したら引退してしまうことが多かったけれど、私は引退しなかった」

1995年11月「北斗旗空手道無差別選手権大会」の演武にて、史上初の氷柱12段割りに見事成功した東塾長

 2021年4月3日(土)、全日本空道連盟・大道塾の東孝塾長が逝去。大道塾が公式HPにて発表した。東塾長は昨夏より末期胃がんの診断となり根治を目指し闘病していたが、2021年4月3日14時35分に永眠。71歳だった。

 東塾長は1971年に極真会館総本部に入門。1973年の第5回全日本空手道選手権大会に初出場すると、翌年には準優勝。第8回3位、1977年の第9回では初優勝を果たす。1975年の第1回全世界空手道選手権大会では6位入賞、1979年の第2回では4位入賞と優れた成績を残す。“人間機関車”と称され、パワフルな下段廻し蹴りで極真空手の黄金期を築いた一人。極真会館を退会すると、1981年2月に大道塾を設立。頭部に防具を着用して顔面攻撃を可能にし、投げや関節技も認める“格闘空手”を創始。総合武道『空道』としてロシアを中心に世界へ広めた。

 東孝塾長の功績を称えると共に謹んで追悼の意を表し、『ゴング格闘技 1996年12月増刊号』に掲載された「極真最強覇者列伝」を特別公開。


(写真)第8回全日本選手権準決勝、元プロボクサーのフレージャーに下段廻し蹴りで一本勝ち

 第5回全日本空手道選手権大会に驚異の新人が登場した。まだ緑帯ながら、すでに大会上位入賞の常連であった佐藤俊和(後の第8回全日本王者)と1回戦で対戦し、判定では敗れるも大いに苦しめたのである。

 ズングリとした体型はいかにも馬力がありそうで、頑丈さも兼ね備えている。下段廻し蹴りは重く、かつ連打で繰り出され、一見不器用そうだが後ろ蹴りも使いこなす。

 その新人の名は東孝といった。高校時代は柔道で鍛え、上京と同時に極真会館へ入門を果たした若者である。

「初陣ということで夢中で攻めたけれど、自分でも何をしているのか分からず肩で息をしているうちに軽く判定負け。ガッカリして、あとは先輩の試合を応援するほうへまわったね」

 東は道場では目立たない存在だったという。茶帯の東谷巧には歯が立たず、同じ緑帯にも転がされてしまうこともあったからだ。その東がなぜ大会でこれほどの活躍を見せたのか。


(写真)相手の足を蹴り砕くような下段廻し蹴りの連打を得意とした

「当時、道場での組手では下段廻し蹴りをやってはいけない、というような雰囲気があった。私が入門する前には、先輩を相手に下段を蹴ってたまたまいいのが入ると、道場を追いかけ回されるといったようなこともあったらしい。だから、思い切り下段を蹴れるのは大会の時だけだった」

 第1回全世界選手権大会の日本代表選手選抜戦を兼ねた翌年の第6回全日本大会。東は茶帯で出場するが前年の覇者・盧山初雄を破るなどして準優勝。続く世界大会でも巨漢の外国人選手を相手に一歩も退かず、6位入賞と実績を重ねていく。しかし、東本人はこの結果に対して満足はしていなかった。

「正直言って自分で負けた…と思う試合は少ない。“どうして俺の負けなんだ?”と思うことが多かったね。私は下段廻し蹴り主体で、見栄えが悪いから旗が上がらないのか、と考えたりしたこともある」

 現役生活を続けながら、宮城県支部長の任にも就いた。そして迎えた第9回全日本大会。東はついに全日本王座へと辿り着いた。しかし…

「優勝したのは素直に嬉しかった。当時は優勝したら引退してしまうことが多かったけれど、私は引退しなかった。まだ、満ち足りないものがあったんだろうね。今でも、負けた時のことを夢に見てハッと起きることがあるよ」

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