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【REBELS】50歳で約16年ぶりのリングに上がる山口元気、皇治とのエキシビションマッチは「左ミドルが蹴れればいいかなと」

2021/02/25 21:02

山口元気代表インタビュー
「『REBELS』封印には、意外と淋しさはないんです。なぜなら……」

2010年1月にスタートした『REBELS』の歴史が、今大会で幕を閉じることとなった。格闘技界で「最終興行」と銘打って行われる例は珍しいが、創設者の山口元気代表はどんな気持ちでそこに向かおうとしているのか。『REBELS』の歴史を振り返ってもらいながら、その心境に迫った。

早すぎたYouTubeチャンネル

──『REBELS』の第1回がウィラサクレック・フェアテックスジムとの合同興行だったという事実は、もはや誰も思い出せないでしょうね。

「そうですよね(笑)。あれは……何でだったっけかなぁ……?」

──山口代表でもそんなレベルなんですか(笑)。

「その前に1回、クロスポイント主催で大会をやってるんですよ。ウチの子たちに試合を経験させたいなとは思っていて、僕は当時、RISEの運営にいたじゃないですか。ヒジありの試合に選手を出す舞台がなくて、どうにかしたいなあと思っていたら当時、ウィラサクレックジムがやっていたM-1の山本さんと、『じゃあやりますか』となって」

──『REBELS』という名前は誰がどこから考えたんですか?

「僕です。由来は諸説あるんですけど(笑)、『若き勇者たち』っていう映画があるんですよ。軍国主義に抵抗する若者たちを描いた作品で、最後はみんな死んじゃうんですけど、その映画がすごく好きだったんですよね。大きなものに反逆して戦っていくっていうところがすごく好きで」

──当時、反逆すべき「大きなもの」って何だったんですか?

「K-1ルール全盛期で、5Rヒジありというのが目立つ舞台がなかったから、『じゃあそれをやろう』と思って」

──スタート当初から、対戦カードには炎出丸選手やT-98選手が名を連ねてますよね。クロスポイントの所属選手を中心にいければというのがあったんですか?

「いや、それはなかったですね。彼らはまだ若手だったし。ただ彼らは基本的にヒジありが得意で、RISEルールがあんまり向いてなかったというのはあって。しかも俺自身のルーツがムエタイだから、それをやりたかったんですよね」

──イベント運営ということで言うと、RISEでもやっていたわけですよね?

「RISEは会議に出てるだけみたいな感じだったんじゃないですかね。お金を工面してどうこうというところには関わってないので、ちゃんと運営したのはディファ有明でやった主催興行からですね」

──だったら大変だったのでは?

「あの頃はムエタイのイベントが今よりは少なかったんですよね。ウチとM-1ぐらいしかなかったから、選手たちも比較的出てくれて、マッチメイクに困るってことはなかった気がします。だからWPMFの王座決定トーナメントとかバンバンやって盛り上がって。その2~3年後からイベントが増えてきて、奪い合いになってきた部分はありました」

──では最初は、売り上げ的にも順調だった?

「本当に初期だけですけどね。でもやっているうちにキツくなってきて、『ちゃんと会社でやろう』ということになったので、応援してくれていた櫻田貴士さんと一緒に運営会社のDef Fellowを立ち上げたんです。でも立ち上げ半年で資本金がほぼ無くなるというピンチになってしまい、慌てて僕がやるようになって黒字に持ち直して。その後は赤字と黒字を行ったり来たりというところですね」

──営業面はともかく、イベントの大きな流れとしては困ることはなかったと。

「ムエタイ・ルールに関しては他がやってなかったことをずっとやってたと思うので、いい選手がけっこう出てくれましたよね。流れが変わったのは日菜太選手が加わってからで、彼のためにヒジなしの試合を組む必要があって、そこから2分割という感じになりました。あとWPMFの方でいろいろあって、それまで育ててきたチャンピオンとかが使えなくなったりして、それで考えたのが地方選手の起用なんです。北海道のUMA選手とか京都のヤスユキ選手、沖縄の中村広輝選手とか」

──地方で頑張ってるいい選手というのはずっといますからね。

「でも東京の大会ではあまり応援に来られないから、彼らのことを宣伝する必要があるんですよ。それで『今ならYouTubeだろう!』ってことで『REBELS.TV』を始めたんです。早すぎましたよね(笑)」

──YouTubeはもちろんありましたけど、今とは存在感というか、また違いましたね。

「当時はPCで見るのがほとんどで、まだスマホが無かったんですよ。だから皆んなが気軽に見る感じはまだ無くて。でも地方でキックをやってる人はよく見ててくれたみたいで。地方に行くと『あ、『REBELS.TV』の人だ!』とか言われましたね。K-1もまだテレビ東京の番組をやってなかった頃だったし、毎週必ず見られるキックの情報番組って、ウチしかなかったですから。でもK-1がガンガンやるようになってテレ東の番組も始まって、さらにAbema TVも始まると、情報量ではたちうちできなかったですね。『REBELS.TV』自体は、お金をかけて面白いコンテンツを作ってたと思うんですけど」

──『REBELS』はメディア方面の活動を頑張っているイベントというイメージはありましたよね。

「でも、いかんせん大きな資本があるわけではなかったので、ゲリラ的にやれることをやってたという範囲でしたよね」

アマチュアからプロへのピラミッド構造を作る

──日菜太選手の登場でヒジなしもやるようになって、時期的にはKrush、K-1が台頭してくる頃でもあります。その影響はありましたか?

「日菜太選手もまだ若くて対戦相手もいたし、まだそこまででもなかったですけど、新生K-1が本格的に立ち上がってからはちょっと変わりましたね。メディアも選手たちの目もそっちに向くじゃないですか。その影響は、いろんな団体、イベントが受けたんじゃないですか。でもウチはムエタイが核だったので、そこまででもという感じです」

──昨年10周年を迎えましたが、そこまで大きなピンチというのはなかった?

「本当のピンチは『KNOCK OUT』が立ち上がってからですよ。こちらは小笠原瑛作選手、T-98選手、不可思選手などクロスポイントの主力選手をたくさん出して協力していたんですけど、他ジムから参戦していたウチの現役チャンピオン等主力がバンバン抜かれちゃって、そのフォローもなくて。一時はウチの大会がガラガラになって、どうしようという感じになりました。だから2017~18年あたりは本当に苦しかったです」

──あの頃は他団体は皆んなガラガラでしたね。その『KNOCK OUT』を今は山口代表が運営しているんだから、世の中は分からないものですね(笑)。話を戻しますが、ムエタイのイベントとしてはタイの2大スタジアムのタイトルマッチを組めたのがすごかったですね。

「そうですね。ラジャダムナンは2回、ルンピニーは1回やれたのはよかったと思います。梅野源治選手やT-98選手というチャンピオンも生み出せましたからね」

──山口代表が『REBELS』で一番やりたかったことというのは、そこで実現されたわけですか?

「僕が一番やりたかったのは、今もそうなんですけど、『アマチュアからプロへのピラミッド構造を作る』ということなんですよ。それはずっと僕の根源にあるんですけど、その時々でやらないといけないことは変わってくるし、いろんなことも分かってくるじゃないですか。キックボクシングはボクシングと違って、まず大きく『ムエタイルール』と『K-1ルール』があるし、その2つがどっちも競技としてピラミッドが成り立つようにしたいなと思ったんです」

──確かに、アマチュアからの仕組みを作るという姿勢はずっと一貫してますね。

「変わらないですね。選手達が目指す道筋を見せて行くことが大事なんだなと自分の経験から考えています。最初はアマチュア大会もなかったし、プロの選手がタイトルを獲った後の“上”もない。それを『REBELS』ではルンピニーやラジャダムナンに持っていこうと思ってたんですけど、それもなかなか難しくて。だったら日本のキックボクシングをまずちゃんとやって、今だったら『KNOCK OUT』でREDルールとBLACKルールの階級とタイトルを整備して頂点を決めて、いずれはその先の世界大会がやれるようになりたいですね」

──ということは、現状はまだ全然途中ということですか。

「はい、全然です。本当は今頃もっとできているはずだったんですけど、あと10年でなんとかしたいですね。でもその道を後退することにはなってないので、まだいいのかなと思ってますけどね。毎年、大晦日に櫻田さんと話すんですよ。『まさか日菜太選手がK-1に出るとはね』とか、『まさか『KNOCK OUT』をやらなきゃいけなくなるとは』とか。それが、『まさか宮田さんがプロデューサーになるとはね』じゃないですか(笑)。だから少しずつ目標に近づいてはいるんですよ。まだまだですけど、少しずつは形になってるという実感はあります」

──いろいろ変化はありながらも、着実に進んではいると。

「今は宮田さんが入ってくれたことで、僕が仕組み作りに専念できるようになったというのもあるんですよ。だから今はすっごい楽です」

梅野源治選手がラジャのチャンピオンになった時は本当に『やってきてよかった』と思った

──昨年10月から宮田さんがプロデューサーに就任して、いろいろと改革が行われています。その流れで、『REBELS』の名前が今大会で封印されるということにもなりました。名付け親で運営もやってきた山口代表からすると、淋しい気持ちはないんですか?

「それが意外と、あんまりないんですよね」

──そうなんですか!

「だって、今もやってることは変わらないじゃないですか。あくまで『封印』だから、いつかは解かれるのかもしれないし。要はこうなったのって、コロナが影響が大きいですよね」

──というと?

「もともとは、大会場は『KNOCK OUT』で後楽園ホールは『REBELS』という流れを継続してやっていこうということは確認してたんです。でも今は後楽園ホールで態勢を固めるべきというのが僕と宮田さんの共通した認識で、そうすると両ブランドの位置づけをどうしようかということになって。そこで宮田さんが、「今はコロナの影響もあって後楽園しかできないし、地固めの時期だし、それなら『KNOCK OUT』一本でいきましょう」と。僕も「いいっすね!」ということで、何の反論もありませんでしたから(笑)」

──即決(笑)。

「だからコロナにプラスして、『REBELS』『KNOCK OUT』を固めなきゃいけないという今の状況はすごく分かってて。今は宮田さんが入ったし、選手もぱんちゃん璃奈選手、鈴木千裕選手、龍聖選手と、『REBELS』『KNOCK OUT』の“顔”として押し出せる選手も増えてきました。まずは『KNOCK OUT』の“顔”を作る作業に集中しないといけないので、それができてコロナも明けたら、大会場でやれる力もつくと思うんですよ。そうしたらまたブランドを分けることも考えればいい話だと思ってますけどね」

──しかし旗揚げからの歴史を考えると、まさか女子選手が“顔”になる日が来るとはという感じじゃないですか?

「そうですねえ。でもぱんちゃん選手のことはアマチュアの時から目をつけていて、STRUGGLEの鈴木秀明会長にもずっと『ウチに出して!』って言ってましたからね(笑)。彼女は持ってるんですよ。デビュー戦がパンクラスと合同でやった『PANCRASE.REBELS.RING』大会でデビュー前にテレビの密着がついて、試合も生中継の枠に入ったし。常に注目されるところにいるんですよ。そして女子王座を掴んだのが、昨年のコロナ明け一発目のメインで。ほとんど興行がなかった中で、一発目のタイトルマッチでチャンピオンになったので、すごく話題になりましたよね」

──話を戻しますが、『REBELS』封印にあたって、山口代表に特別な感情はそこまでない?

「昨年12月、会見でそのことを発表する当日には「そうか……」とは思いましたけど、全体で考えると明るい未来しかないじゃないですか。『REBELS』が発展して、これから大きくなっていきますよということで、根底は『REBELS』ですから。『REBELS』で育った選手たちがこれから『KNOCK OUT』で前面に出てくるということなので」

──では『REBELS』の歴史の中で、印象に残る試合を挙げていただけますか?

「いっぱいありすぎますけど……梅野源治選手がラジャダムナンのチャンピオンになった時(2016年10月23日、『REBELS.46』)は本当に『やってきてよかった』と思いましたね。その前にルンピニーのタイトルマッチで負けたじゃないですか。その後にまたスポンサーさんにお願いしてタイトルマッチを組んで、それで獲ったので山木ジムの後輩の加藤督明会長(当時)も男泣きしてましたし、僕も感動しました。パッと思いつくのはそれですね」

──それは確かに大きな節目ですね。

「あと、町田光vsヤスユキ(2014年4月20日、『ジェイアクア presents REBELS.26 ~the duel~』)も思い出深いですね。あれも「REBELS.TV」で特集番組を作りましたけど、橋本敏彦師範がタオルを投げるという試合の結末も印象に残ってます。あれをもっと多くの人に広められなかったのが悔いではありますね。いいストーリーだったし、いい結末だったと思うので」

──他には?

「日菜太vsアンディ・サワーの再戦(2015年9月16日、『REBELS.38』)も、その後の流れのきっかけとなる試合でした。あとは中村広輝選手と水落洋祐選手、UMA選手の絡みはどれも面白かったですし」

──先ほども地方の選手の話が出ましたが、『REBELS』の歴史は地方のいい選手を発掘してきた歴史でもありますね。

「出てもらいたい選手はもっといたんですけどね。地方の選手を継続して出したかったのですが、予算の問題もあって中々それも出来ずに申し訳ない気持ちがありました。大きなバックがあるわけでもないし、赤字ではイベントが続いていかないですからね」

──逆に言うと、独立資本でよく10年続けてこれましたね。

「いやホント、苦しい思いしかないですよね。『何でやってんだろうな?』って思います(笑)。僕には一回も給料は出てなかったし、資産が残ってるわけでもないし。ただ、何でやってるのかというと、やっぱりさっきも言った『ピラミッド構造』を作り上げるまではやめられないなという思いがあるからなんですよ。ちょっとずつちょっとずつ近づいてるのも見えてるから、今は頑張って、最後は『楽しかったね』で終わりたいなと。『宮田さんに全部預けて、やめちゃおうかな』というのは毎日思ってますよ(笑)。でも櫻田さんには本当にお世話になっているので感謝もしているし、最後はいい思いをしてもらいたいというのもあります。組織としても今は俺と宮田さんの50代コンビでやってますけど、そっちも若い世代を育てていかないといけないので、そこは当面の課題ですね」

──では最後になりますが、『REBELS』のここまでをひと言でまとめるとすれば?

「『夢の途中』ですね。今の状況は、その言葉がピッタリだと思います。いつになったらそれが現実になるのか分からないですけど、そのつもりで絶対に諦めずにやろうと思ってるので。『ラストマン・スタンディング』じゃないですけど、最後に立っているのは俺たちだというつもりで、いつもやってます。そのためにも僕は表に出ないで、宮田さんに前面に立ってもらおうと。そこで僕がやりたいことをやっていこうと。今の体制は立場的にも、宮田さんがプロデューサー、僕が会社の社長、櫻田さんがオーナーということで、うまい具合になってるんですよ。やっと出来上がったこの体制で『REBELS』の精神を忘れずに、これからも突っ走っていきたいと思っています」

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