2020年10月24日(日本時間25日)に開催された『UFC254』メインイベントのUFC世界ライト級タイトルマッチで、挑戦者のジャスティン・ゲイジー(米国)に三角絞めで一本勝ちし、29戦無敗のまま現役引退を宣言したハビブ・ヌルマゴメドフ(32=ロシア)が28日、試合後に望んだ通り、「パウンド・フォー・パウンド(PFP)」の1位にランクされたことを、UFCが発表した。
試合の3週間前に左足の薬指を骨折していたことを示すレントゲン写真とともに、腫れ上がった甲の写真をアップしていたヌルマゴメドフ。試合の1カ月前にはおたふく風邪にも罹っており、満身創痍の状態だったことが分かっている。しかし、試合前にヌルマゴメドフはハビア・メンデスAKA代表に「コーチ、俺の足の指は壊れているけど、心は壊れていない」と告げたという。
しかし、統一王者としてベルトを腰に巻いたヌルマゴメドフは、試合直後にグローブをマットに置き、「父がいなければ戦えない。これが自分の最後の試合だ。父がいなくなり、ここに来るなんて考えられない。父がいなくなって(戦った試合は)今回が初めてだ。母に3日間相談し、『お父さんがいないと出来ないから、もう辞めてほしい』と言われたけど最後だからと約束し、試合をした」と、突然の引退を表明。
続けて「父の夢だから格闘技をやれた。今日がUFCでの最後の試合になる。ダスティン(ポイエー)とコナー(マクレガー)が1月に戦う。僕はその2人からチョークで勝ったんだ。ほかに何が? もうなんの興味もない」と、父の死とともに戦うモチベーションが失われたことを語っていた。
そして最後に、「自分がUFCに求めることはひとつ。パウンド・フォー・パウンドの1位を僕にすること。それだけのことはやってきたし、無敗のライト級王者なんだ。UFCで13勝、13勝0敗。MMAキャリアは通算29勝だ。自分にはそれが相応しいと思っている」と名実ともに、全階級を通じて最も優れたファイターとして、UFCの記録に残りたいと希望していた。
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ケージの中で求めていたPFP1位の座。それを現実のものとしたヌルマゴメドフは、SNSで「それは僕の生涯の仕事であり、簡単に何かを得ることはなかったし、僕が良い人だからといって与えられるものでもなかった。勤勉さ、アッラーへの希望、忍耐、この3つの要素は、自分の成功を助けてくれた。もちろん、僕に多くの時間と労力を投資してくれた父からの節制とアドバイスによるものだ」と、あらためて現在の自分があるのは、父のおかげであることを語っている。
試合後、勝利しマット上でひざまずき号泣するヌルマゴメドフに、敗れたジャスティン・ゲイジーは、「君のお父さんのこと、お悔やみを言えてなかった。立派なお父さんだったと、たったいま、君が証明したんだ」と励まし、ヌルマゴメドフは涙を拭きながら、立ち上がっている。
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「ハビブは通用するのか。ハビブがもし負けたなら仕方ない、UFCはレベルが違うんだ」と。でも僕は一本勝ちした
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ダゲスタン共和国で生まれたハビブ・ヌルマゴメドフは、レスリングやサンボ、柔道の元選手で、格闘技の手ほどきを受けた父親アブドゥルマナプ・ヌルマゴメドフを、2020年7月3日、新型コロナウイルスによる合併症で亡くした。まだ57歳だった。
このウイルスが無ければ、父はまだハビブのコーナーに座り息子を叱咤し、“イーグル”と呼ばれた親子鷹はともに「30戦無敗」に向かっていたであろう。この得体の知れないウイルスは、固い絆で結ばれた父子を離したまま、最後の刻を迎えさせたのだ。
ダゲスタン共和国のチュマジンスキー地区シルディのアヴァール人の家系に3人兄妹の次男として生まれたハビブは、2001年に家族と共に首都マハチカラに移住した。
前述の通り、格闘技選手だった父親アブドゥルマナプが2階建ての自宅の1階を改築して作った格闘技ジムで、8歳でレスリング、15歳で柔道、17歳からコンバットサンボを学び、コンバットサンボのロシア王者と世界王者にそれぞれ2度、輝いている。
32歳、キャリアの頂点にあったUFC統一世界王者はなぜ、父の死とともに「生涯の仕事」から身を退くことを決めたのか。
その一端がうかがえる2016年のインタビューをUFCヨーロッパが公開した。当時、UFCで6連勝、MMAで22連勝(無敗)を飾っていたダゲスタンの鷲は、父との関係を次のように語っている。
「怪我を重ねるたび、もう身体が持たないから辞めてしまおうかと思った自分を、お父さんが『一人で決めることじゃない、お前はやれる』と説き伏せてここまできた」
無敗でまるで“超人”のように思われるハビブだが、ほかのファイター同様に、怪我をし何度も『辞めよう』と思ったという。
2014年4月から2016年の4月までは、たび重なるヒザの負傷や肋骨の骨折により、2年もの間、オクタゴンを離れた。落胆したハビブは一度は警備員になることを検討したが、父アブドゥルマナプは、その計画に同意しなかった。彼は息子が格闘技を諦めないように、モチベートし続けた。
「特に、MMAを始めた初期の頃は、ロシアでMMAってそんなにポピュラーじゃなかったというか、知られているのはヒョードルくらいなもので、みんなに『UFCってどうかな』と聞くと、『そんなの無理』っていう感じだった。2011年の終わりに16勝を経てUFCとサインしたら、みんなが『すごい』と声を上げた。2012年の1月のデビュー戦はすべての共和国民にとって待ちわびた瞬間だったと思う。“ハビブは通用するのか。ハビブがもし負けたなら仕方ない、UFCはレベルが違うんだ”と。でも僕は一本勝ちした(カマル・シャロルスにリアネイキドチョークで勝利)。そしてロシアの多くの選手への道を開いた。僕はある種、歴史を打ち立てたというか、決して些細なことじゃないと思ってる。このことは10年とか20年経ってから大きな歴史として、多くの人に語られることになると思っている」
ハビブ以前、MMAにおいてロシアとは、東スラブ人によるものを指すことが多かった。ウクライナ生まれのエメリヤーエンコ・ヒョードル、イゴール・ボブチャンチン、ベラルーシ出身のアンドレイ・アルロフスキー、トゥーラ出身のイリューヒン・ミーシャ……しかし、ハビブ・ヌルマゴメドフやアリ・バガウティノフらダゲスタン共和国の“第一世代”ファイターたちがオクタゴンで勝利を挙げることで、北カフカス(コーカサス)のファイターたちに、MMAの新たな道を切り拓いたことは確かだ。
ハビブは言う。「父はいつも、『もし目標があって、何かしたいことがあるなら、ハードワークをこなさなければいけない。もし簡単な道を選べば、誰か別の人間がそれを取ってしまうだろう。だから一生懸命やらなくてはいけない』と言ってた。もしお父さんがコーチじゃなかったら、僕は違う人間になっていたと思う。UFCに来ることなど叶わなかっただろうし、父が常に自分を後押ししてくれた」
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もし父が提案したら、僕は全部やらなきゃいけない。ライオンだろうが、熊だろうが、鷲だろうが
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自宅を改築したジムで、息子を鍛えるために自身のすべてを注ぎ込んだアブドゥルマナプは、ある日、ハビブに驚くべき提案をする。
「お父さんが『熊とレスリングしたいか?』って聞いてきたことがあって。『うん。もちろん。やるよ!』って答えたんだ(笑)。だって、もしお父さんが何かを提案したら、僕は全部やらなきゃいけない。ライオンだろうが、熊だろうが、鷲だろうが構わない。やらなきゃ。あの熊はリアルじゃないというか森にいるような野性の熊ではなくて、サーカス熊だったんだけど、彼は多分、柔術は茶帯だね(笑)。僕のこと2回もテイクダウンしたんだよ。3回だったかな。正確には覚えてないけど、僕もテイクダウンしたよ。あの子、強かったな(笑)」
9歳のハビブ少年のシングルレッグをがぶる小熊、なおもダブルレッグでテイクダウンするハビブ。背中をつけず足を効かせてすぐに立ち上がる熊。逆に立ち上がった熊は片手で脇を差して、もう片方の手でニータップでヒザを折り、テイクダウンを決める。尻餅をついたハビブにバックを奪おうとする熊。ハビブは股下に腕を差し込みスイッチから上を取り返し、脇を差しに行くが、熊も脇を差し返していく──熊とともに、ほとんどレスリングの攻防を繰り広げたヌルマゴメドフの動画は瞬く間に世界中に拡散された。小熊と互角に組み合うハビブを父はどんな想いで見つめていただろうか。
「ダゲスタン人はなぜそんなにタフなのか」と問われたヌルマゴメドフは、レスリングがその根底にあることを語っている。
「みんな好きでスポーツをやっているからかな。みんなMMAのことが好きだし、レスリングが好きだし。僕のレスリングキャリアで言えば、4、5歳からスタートしてるけど、みんな大体がそれくらいの歳から始めてる。小学校に通い始める前に、みんなレスリングに行くんだ。『レスリングに挑戦する』ということが伝統だからね。ダゲスタンの人間にとってはフリースタイルレスリングがトラディショナル・スポーツなんだ」と、身に沁みついていることだという。
「僕はこれまでを通して、フリースタイルレスリング、柔道、コンバットサンボをやって、8年前にプロMMAファイターになり、その4年後にUFCファイターになった。楽しいからやっていたというか、自分がトレーニングをしていなかったらどういう人間になっていたかは想像もつかないんだ。何も分からないな。自分というのはただトレーニングとともにある。それが僕の人生」
練習に励み、試合に臨み、またジムに戻る。その繰り返しの日々を父と送ってきた。
「お父さんは僕のコーチであり、ここ(米国)に来ることになって、AKA(アメリカン・キックボクシング・アカデミー)のハビア・メンデスがヘッドコーチに就いたけど、人生においてやはり自分のコーチは父親で、お父さんは家でもジムでも、いつでもどこでも常に自分を鍛えてくれた。“お父さんは、僕のすべて”さ」
この2年後に初めてUFCの王座に挑戦することになる28歳の青年ハビブは、何の躊躇もなく「父が自分のすべて」だと言い切っていた。
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2016年にハビブが語っていた引退「無敗の、誰もが認めるUFC世界ライト級王者としてキャリアを終えることが自分のゴール」
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ロシア最南端のカスピ海西岸に位置し、トルコ語で“山の国”を意味するダゲスタンの民は、誇り高き不屈の山岳民族としても知られる。
「たぶん、(長期離脱することがあっても)UFCが僕を信じてくれたのは、新しいスターを必要としていたから。それに、UFCに多くのタフな選手がやってきては敗れていくのは、メンタルの問題だと思う。僕は最もメンタルが強靭な選手だから。無敗の最強チャンピオンになることは、自分や自分の国にとっても良いことだけどUFCにとってもそうなんだ。だから、僕は続けなきゃいけない」
「歴史に残る、と?」と問われたヌルマゴメドフ。
「そうなりたい。それが目標。史上最強のライト級ファイターとしてベルトを獲って、無敗の、誰もが認めるUFC世界ライト級王者としてキャリアを終えることが自分のゴール。ダメかな? いいだろ? 自分になら出来る」
4年も前のインタビューで、無敗の最強王者として引退することを語っていたハビブ。UFCのダナ・ホワイト代表は、今回の試合後会見でヌルマゴメドフについて、こう語っている。
「この男が経験してきたこと、今夜彼の試合を見ることができたのは幸運だ。陣営によれば、彼は3週間前に病院にいて、足の指が2本も折れていたのに、いつものように仕事をこなした。彼はそのことを誰にも言ってなかったんだ。前日計量や今日の様子を見てヤバいんじゃないかと思ってた。彼が彼じゃないように見えた。呼吸も荒かった。だが結果は衝撃的だった」
「彼は地球上で最もタフな人間の一人であり、世界No.1のパウンド・フォー・パウンド・ファイターだ。真面目な話、他の誰かが“GOAT”(Greatest of All Time=史上最高)だと言っても、彼を“GOAT”の地位に上げなければならない」
そして、統一王者に輝き、引退を表明したことについても、「確かにハビブは戻ってこないだろう。ファイターは戦いたい時に戦う、戦いたくない時には戦わない。彼を休ませようじゃないか。父親を亡くしたことで肉体的のみならず、精神的な癒やしが必要だ」と、ヌルマゴメドフの腰に何度もベルトを巻いて来たダナは語った(※試合1週間後にダナ代表は「彼に時間をあげたい。彼は今でもチャンピオンのままだ。空位のタイトルも、暫定タイトルも今のところ挑戦できない」とヌルマゴメドフの気持ちが落ち着くのを待つとしている)。
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クレイジーなゴールを目の前に置きたくないんだ
【写真】2019年9月の「UFC 242」の試合後にダスティン・ポイエーとそれぞれのオリジナルTシャツを交換したハビブ。オークションにかけてポイエーが家族で運営している恵まれない子どもたちのための慈善団体「グッド・ファイト基金」に寄付をしたいと表明。10万ドル(約1,000万円)で落札されるとそのまま寄付した。(C)Zuffa LLC
名実ともにパウンド・フォー・パウンド、そして成功を収めたハビブだが、試合2週間前のESPNの動画に、セレブとして過ごすことに興味を持っていないことを語っている。
「生きるために、僕はあまり(金を)必要としない。億万長者であっても、1日に2杯以上のパンを食べることもない。大事なことはお金や人気ではなく、近しい人や家族とどれだけ親しくいられるかだ。なぜなら今日のチャンピオンが明日はどうなるか分からないのがこの世界だから。自分にとって大事なのは家族や仲間だ」
このダゲスタンファイターは、いったんは故郷へ戻ることになるのだろう。
「僕は“イーグル”。飛びたいんだ。“僕の時”が来たら僕は死ぬだろう。でもその時間になる前に飛びたい。家族、友達、人々と一緒に時間を過ごしたい。自分の村に住みたい。クレイジーなゴールを目の前に置きたくないんだ」
そう語っていたハビブ。故郷、北カフカスはロシアで決して裕福な地域ではないが、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教と多様な文化を育んだ歴史を持つ。そして、不屈の魂とともに、家族のつながりをとても大事にすることで知られている。
2013年、ハビブはパティマットと結婚し、3人の子供を授かった。パティマットは“イーグル”の初恋の相手だという。ヌルマゴメドフ一家が首都マハチカラに引っ越す前に、1年間だけ学校で席を並べていた。パティマットとは故郷の村で結婚式を挙げている。
敬虔なイスラム教徒として知られるハビブは、アルコールを飲まず、ラマダンの月には戦いたくないことも示している。と、同時に人生をもっと楽しみたいとも思っているようだ。故郷の村で家族や友人とより多くの時間を過ごすこと。そして、ハンバーガーを食べること。
2019年9月にダスティン・ポイエーに3R、リアネイキドチョークで一本勝ちしたハビブは、試合後のケータリングで様々な料理があるなかでハンバーガーを選んでいる。そして、今回の「UFC 254」でもジャスティン・ゲイジーとの戦いを終えた後の食事に選んだのはハンバーガーだった。
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我々にはコーチすべき若者たちがたくさんいます
金網から放たれたイーグルは、このまま格闘技の世界から飛び立ってしまうのか。
2020年10月24日、ゲイジーとの試合でヌルマゴメドフは、あの日、熊を倒したように、マットに両ヒザを着きながらもダブルレッグテイクダウンを決めた。すぐにマウントを奪い、上から三角絞めの体勢に。
左足で相手の右脇を開けさせ、右足で首を刈り、腕を抱えて後方に倒れ込み、腕十字も狙える形から両足を三角に組んだヌルマゴメドフ。定石通り胸を張って、腕を内側に流されないよう外側に置いたゲイジーだが、ハビブは腕も流さず頭も引きつけず、正対しないで絞めた。ゲイジーはタップするも気づかれず、再度のタップの直後、失神した。
それは、オールドスタイルと異なり、モダン柔術家たちが見せる90度に角度をつけた三角絞めの極め方だった。
試合後、ヌルマゴメドフはAKAの親友ダニエル・コーミエーに、このマウントからの三角絞めは、父アブドゥルマナプが気に入っていた関節技であり、試合前にゲージーが「タップはしない」という言葉を聞いていたため、絞め技を選択したことを明かしている。父から受け継いだレスリングに柔道、コンバットサンボ、そして一時は敵対していたブラジリアン柔術の技術も採り入れ、ハビブは、最先端のMMAを戦っていた。
引退を決めたハビブだが、帰路、父と同じ五十路となったAKAのハビア・メンデスコーチの隣りで、試合前とは異なる未来も語っている。「我々にはコーチすべき若者たちがたくさんいます。私はいつもあなたを助けます」。
その言葉に、マスクを着けたハビアは笑顔の写真とともに「史上最高のファイターに別れを告げることで、未来の偉大なコーチと共に、未来のチャンピオンを作るための新たなスタートを切ることができます」と記している。