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【訃報】前田憲作、新田明臣、藤原あらしらを育てた名伯楽、UWFにも貢献したシンサック会長が逝去

2020/07/06 14:07
 シンサック・ビクトリー・ジム(SVG)の会長として多くの名キックボクサーを育てたシンサック・ソーシリパン氏が、2020年6月25日・午後11時頃に都内で亡くなっていたことが分かった。71歳だった。  夫人の高岡左千子さんによれば、シンサック氏は昨年6月に「余生はタイで送りたい」と帰国したものの、ビザの書き換えなどに時間がかかり、クレジットカードを紛失するなどしたため今年2月に帰国。 (写真)高速道路の高架下にジムを作って若者たちを指導した 痩せ細って体調もよくなかったため介護施設に入る予定だったが、空きが出るのを待っている間に大腸がんで亡くなった。亡くなる直前まで食欲もあり、3時間前まで高岡さんと普通に会話をしていた。苦しんだ様子もなく眠るように旅立っていった。  シンサック氏はすでに火葬され、遺骨は今月いっぱいまでジム葬という形でジムで練習を見守る。骨は病気をしていたとは思えないほど大きく丈夫で、骨壺も一番大きなものでないと入りきらなかったという。  シンサック氏は1949年9月8日、タイ・サパーマイ・ドンムアン地区でパン屋を営む中国系の父に、7人兄弟の長男として生まれた。11歳になった9月、自宅から徒歩1分と近所にあったソーシリパン・ジムの門を叩きムエタイ選手の道へ。その3カ月後に近所のリングでデビュー戦を行い、2RにハイキックでKO勝ち。ファイトマネーは「150円」だった。 (写真)ボクシングからキックボクシングに転向した西城(右)との試合が運命の分かれ目だった 年齢をごまかして15歳の時に殿堂ラジャダムナンスタジアムに初出場(規定では17歳以上だった)。17歳の12月にはジュニア・ウェルター級(スーパーライト級)でランク入り。18歳の春にラジャダムナンスタジアム認定ジュニア・ウェルター級王座を史上最年少(当時)で奪取し、国中の話題になったという。  しかし、初来日となった1972年、元WBA世界フェザー級王者・西城正三のキックボクシング転向第2戦の相手を務めて2RでKO負け。バンコクの地元紙が「シンサックは無気力ファイトで敗れ、国技ムエタイを汚した」と報じ、帰国前に王座ははく奪された。 (写真)シュートボクシングの創成期にも貢献した タイでは1年間の出場停止処分を受け、復帰してからはルンピニースタジアムのジュニア・ウェルター級7位に返り咲いたが日本での活動を重視。“真空飛びヒザ蹴り”で一世を風靡した沢村忠とは6度もグローブを交えている。藤原敏男、富山勝治ら一線級とも戦い、生涯試合数は約163戦。日本では50~60戦を消化した。また、1977年には極真空手の第9回全日本選手権大会にも出場している。  1973年に日本人女性と結婚し、トレーナー業も始めて1987年5月にシュートボクシングのリングにて正式な引退試合を行った。1988年11月には高速道路の高架下にシンサック・ビクトリー・ジム(SVG)を開設。WKAムエタイ世界スーパーフェザー級王者・前田憲作、WKAムエタイ世界スーパーウェルター級王者・新田明臣、全日本ライト&ウェルター級王者・内田康弘、WPMF世界スーパーバンタム級王者・藤原あらしなど多くの名選手を育て、SVGは一大勢力となった。  また、初期の修斗(シューティング)でも打撃を指導し、当時UWFの前田日明、高田延彦、山崎一夫、安生洋二らに蹴りを指導してUWFの人気に一役買った。船木誠勝や柳澤龍志などパンクラスの選手にも指導するなど、日本格闘技界と深い関わりがあった。
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