キックボクシング
コラム

【1990年6月の格闘技】これぞ格闘技、“喧嘩嵐”スミットvs“帝王”カーマンの大激闘に武道館熱狂

2020/06/03 04:06
 1986年10月に創刊され、30年以上の歴史を誇る格闘技雑誌『ゴング格闘技』が、秘蔵写真と共に過去6月にあった歴史的な試合や様々な出来事を振り返る。第6回目は1990年6月30日、日本武道館にて開催された全日本キックボクシング連盟『INSPIRING WARS HEAT 630』より、大激闘となったピーター・スミットvsロブ・カーマンのオランダ人選手対決。 “欧州の帝王”と呼ばれ長きにわたってヨーロッパ・キックボクシング界のトップに君臨していたカーマンは、たびたび日本でも試合を行う外国人スター選手だった。対するスミットは極真空手の強豪選手として名をはせ、1987年11月に日本武道館で開催された極真会館『第4回全世界空手道選手権大会』では黒澤浩樹と激闘を展開して大きなインパクトを残していた。  すでにキックボクシングへ転向していたスミットだが、この一戦はキックボクシングvs極真空手との見方を当時はされていた。しかもスミットが世界選手権大会で大暴れした日本武道館。何かが起こりそうだとの予感は試合前から漂っていた。  カーマンは来日時からピリピリとした空気を周りに漂わせていた。この2カ月間、ルンピニースタジアムにて行われたチャンプア戦で受けた右膝下の傷が癒えていないばかりか、脛は化膿して大きく腫れあがっていたのだ。また、妊娠中の夫人の容体が思わしくなく、早産の恐れがあったためカーマンは病院でつきっきり。練習らしい練習を積むことができず、来日も試合前日にようやく果たしたというバッドコンディションだった。  世紀の決戦のゴングが鳴らされ、カーマンは左右に構えをスイッチしながら前進し、プレッシャーを与えようとするが、スミットはそんなことはお構いなしとばかりにバックキックを連射していく。決してスピードはないのだが、この技が試合全体を通して実に有効的に当たることとなる。  前に出るのはスミット。カーマンはカウンターを狙うかのようにスミットの動きに合わせて一歩、二歩と下がる。3R後半、カーマンはフックからローキックのコンビネーションを見せるが、4Rにはスミットに顔面直撃のストレートをもらう。  疲れを知らないスミットの猛攻が続き、カーマンも必死の応戦。見合う暇などない文字通りの“大激闘”が繰り広げられる。カーマンのパンチもヒットするのだが、スミットはそれを無視するかのように攻撃の手を休めない。 “カーマンの悲劇”は7R(試合は2分12RのWKAルールで行われた)にその幕を開いた。スミットの猛攻に防戦一方となったカーマンは、バックキックからの右フックを浴び、ついにダウン。「うおおおーっ!」という観客の驚嘆の声に武道館が揺れる。あのカーマンが倒れた、と。  カーマンはカウント8で立ち上がるも、再びスミットの猛打でダウン。死力を振り絞り、何とか立ち上がったカーマンはゴングに救われた。  崖っぷちに追い込まれたカーマンだが、8Rと9Rは帝王の意地で耐え忍ぶ。だが、10Rにはコーナーでスミットの暴風雨のようなパンチラッシュにさらされた。スミットの打撃はパンチというよりも突きの連打だ。とどめの右を喰らうと、カーマンは力尽きるようにコーナーに倒れ込み、10カウントを聞く。決着タイムは10R2分9秒だった。  この試合はWKA世界ジュニア・ライトヘビー級タイトルマッチとして行われ、ベルトはスミットの腰に巻かれた。実はこのタイトル、カーマンが長年狙っていたWKA世界ライトヘビー級王座は当時の王者がいつまで経ってもカーマンの挑戦を受けなかったため、WKAが新設したタイトルだった。カーマンのために作られた階級のタイトルをカーマン自身が手にすることが出来なかった。  力と力、技と技、意地と気迫がぶつかり合ったこの試合は、1990年のベストバウトにあげる声も多かった。凄絶なる覇者交代に、満員の観客は酔いしれた。
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