1986年10月に創刊され、30年以上の歴史を誇る格闘技雑誌『ゴング格闘技』が、秘蔵写真と共に過去4月にあった歴史的な試合や出来事を振り返る。26回目は1997年4月22日に大阪府立体育会館で行われた田村潔司(リングス・ジャパン)vs高阪剛(同)の一戦。
田村は1996年6月にUWFインターナショナルからリングスへ移籍。長井満也、山本宜久に続いて田村の前に立ちはだかった高阪は、ある意味ではリングス・ジャパンの中で打倒・田村に最も近い存在だと思えた。タックルの速さ、 柔道四段の実績に裏打ちされた腰の強さもさることながら、田村のスタイルに最も近いのが高阪のスタイルだったからだ。加えて高阪には田村を上回る体格がある。
「今まで一番良かったモーリス・スミス戦の次ぐらいに、今日は体調が良いんです」と試合前の高阪は自信を覗かせていた。
一方の田村は「今日は自分が勉強するか、彼が勉強するかですね」と 高阪を強敵として認めるようなコメント。好試合になることは必至だ。先手を取ったのは田村だった。腕をコンパクトに構えた打撃重視の構えから、ローを放っていく。それも一本調子のローではない。常にフェイントを入れて、高阪がガードする逆を蹴っていくのだ。
このフェイントという技術が試合の流れを決めた全てだった。田村は膝を上げての前蹴り、同じように膝を上げてからの掌底やタックル、そのタックルに行くと見せかけての掌底とフェイントを駆使して常に高阪を翻弄した。
こうして実戦で田村と較べると、高阪の攻めは素直すぎた。フェイントを使って、先の先を読んで動いている田村に高阪は十分に反応することが出来なかったのである。
最初のエスケープは肩固めにいく体勢に入った高阪が奪ったが、田村は冷静に大事をとっただけのよう だった。続く打撃戦で先に述べた両者の差は明らかとなった。
田村が強烈な右ボディストレートを放つと、高阪もすぐに同じ技を返す。だが、これが罠だった。続いて田村はもう一度左ボディを突き刺すと、完全にボディに気がいってしまった高阪のテンプルへ右掌底を叩 きつけたのである。
大きくバランスを崩し、足にきた高阪へ田村は右掌底フック、ダウンを奪った。
これで「冷静さを失った」高阪を田村が仕留めるのは時間の問題だった。最後はアキレス腱固めを回転しながら返し、同じように足を取りにいこうとした高阪だったが、田村はその瞬間を待っていたかのように足首固め。試合後、高阪がしばらく立ち上がれないほどのダメージを与えた強烈な技だった。勝負を決めたのはやはり田村の先の先を読む冷静さだった。
「あと3年経ったら彼は強くなるでしょう。試合の出来は良かったと思ったけど、相手にケガをさせてしまったから駄目ですね」と田村。そしてこうも付け加えた。「彼はすごく悔しいでしょうね」
一方、敗れた高阪はいつものようにテレビ用のインタビューに淡々と答えていたが、インタビュアーが「彼は何も言わなくても勉強するでしょうから先が楽しみですね、と田村選手が言っていましたよ」とのコメントを伝えると、目にうっすらと涙が浮かんだ。
それでも高阪は最後まで質問に答えた。ライトが消され、インタビュアーは礼を述べて立ち去る――そこまでが限界だった。
下を向いた高阪は、タオルで顔を覆ったまま肩を震わせた。ひょうひょうとした、時には太々しいまでの自信に満ち溢れたいつもの高阪の姿はそこにはなかった。デビューしてから初めて、高阪は試合に敗れて泣いた。