1986年10月に創刊され、30年以上の歴史を誇る格闘技雑誌『ゴング格闘技』が、秘蔵写真と共に過去4月にあった歴史的な試合や出来事を振り返る。16回目は1994年4月30日に東京・国立代々木競技場第一体育館で開催された『K-1 GRAND PRIX'94~10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント』の決勝戦、佐竹雅昭(正道会館=当時)vsピーター・アーツ(オランダ)の再戦。
1993年4月30日に開催された第1回の『K-1 GRAND PRIX』。その無差別級トーナメントでアーツは優勝候補筆頭と目されながらも、アーネスト・ホーストにまさかの1回戦敗退。その後は3戦を経験して全勝、再びK-1GPに挑み1回戦でロブ・ファン・エスドンク、準決勝でパトリック・スミスを両方KOして決勝戦へ進出した。
一方、佐竹は第1回K-1GPからこの1年でUKF世界ヘビー級、KICK世界スーパーヘビー級とキックボクシングの世界タイトルを2つ獲得し、WKA世界スーパーヘビー級王者で“世界四強”と呼ばれていた内の一人であるスタン・ザ・マンに圧勝。勢いに乗ってトーナメントに臨みたかったが、3月大会でホーストにKO負けを喫し、約1カ月半のスパンでの出場となった。
それでも1回戦でマイケル・トンプソンをTKOで下し、辛勝ながらも前年王者ブランコ・シカティックを破って初の決勝進出を決めた。
大会前日に行われた公開練習で、アーツは「優勝戦は佐竹とやりたい。昨年の格闘技オリンピックでの決着をつける」と宣言していた。両者は1992年10月に開催されたK-1の前身である『空手オリンピックIII』にて2分5R制で対戦し、5Rフルに戦って引き分けとなっていた。アーツの望み通り、決勝戦では佐竹との1年半ぶりの再戦が実現。
オープニングはアーツの左ハイによるけん制。続いて繰り出される左ジャブ、左右フックを頭を低く下げてかわした佐竹は左ローを連打する。左へ回りながらローを蹴っていく佐竹。アーツのパンチ3連打はまともに受けたが、左ジャブには右フックを被せる。アーツはロー、ジャブで佐竹の体勢を崩し、右ハイを狙う作戦のようだ。
2Rに入ると、アーツが積極的に前へ出てパンチ、左ミドルを放っていく。やや劣勢となった佐竹はその前進に合わせての右ロー、左右フックを繰り出すが大振りのためヒットしない。逆にアーツの前へ出てのワンツーが佐竹を追い込んでいく。
3R、もう後がない佐竹は果敢に突っ込み、左右フックを振るうも命中することはなく、逆にアーツの右ストレート、左ミドル、さらには右バックスピンキックを浴び、組み付けばヒザを突き刺されてしまう。
場内からは「サタケ」コールも沸き起こったが、今度ばかりはその声援もエネルギーとはならない。アーツはストレートの3連打、右バックハンドブロー…佐竹に大きなダメージはないが、右ローを返すのが精一杯。最後のゴングが鳴った時、勝敗は明らかだった。ジャッジ三者は27-25、30-25、30-29と差をつけ、アーツが2度目のチャレンジでK-1GPを制した。
試合後、佐竹は「頑張りました。その一言です。まだ負けた実感が沸いてこない。チクショー、クソっとは思うけれど負けた気はしない。アーツにはリング上で“もう1回”と言いました。あと一息、ちょっとずつ頑張っていきたい」と無念の表情。結果的に、この準優勝が佐竹のK-1GPにおける最高位となった。
佐竹とは対照的に、終始笑顔のアーツは「佐竹は前に比べて自信を持って臨んできたし、とても強くなっていた。10万ドルを何に使うかって? トム(・ハーリック会長)とブランコ(・シカティック)がベンツを持っているので、僕も素晴らしいベンツを一台購入するよ」と豪快に笑う。
そして、第1回のシカティック、第2回のアーツと連続でK-1GPを制し、世界最強軍団であることを証明したチャクリキジムのハーリック会長は「一言だけ言わせて欲しい。日本のファンは素晴らしい。強い者に対して、素直な尊敬の気持ちを持っている。皆さんの前で試合ができたことを光栄に思っている」と、日本のファンに感謝を述べた。