空手
コラム

【1994年4月の格闘技】格闘技界に大きな衝撃、“ゴッドハンド”大山倍達死す

2020/04/08 12:04
 1986年10月に創刊され、30年以上の歴史を誇る格闘技雑誌『ゴング格闘技』が、秘蔵写真と共に過去4月にあった歴史的な試合や出来事を振り返る。5回目は格闘技界に大きなショックをもたらした極真空手の創始者・大山倍達総裁が亡くなった日。 「私はサムライだから、自分の体にメスを入れてまで生きたくはない」  1994年4月26日――。格闘技界に衝撃が走った。午前8時、東京・中央区の聖路加国際病院にて、極真空手の創始者であり、国際空手道連盟極真会館総裁の大山倍達が肺がんによる呼吸不全のため70歳で死去したのだ。  3時間後の午前11時過ぎには東京・池袋にある極真会館総本部に到着した。通夜、告別式の用意に奔走する都内近郊の支部長、弁護士、本部道場生が慌ただしく会館を出入りする中で、午後1時、取材に訪れていた報道陣に対し、午後4時から記者会見を行う、との発表があった。  記者会見は総本部一階道場に、テレビ局2社を含む約30名の報道陣を集めて行われた。まず、大山総裁の死亡理由の説明から。「本日午前8時、聖路加国際病院にて、肺がんによる呼吸不全のため死亡しました。大山倍達総裁もやはりがんには、歳には勝てなかった…」と淡々とした口調が、余計に事の重大さを物語っていた。  大山総裁は毎年3月、聖路加国際病院で人間ドックに入る習慣があり、この年は1月から風邪をこじらせたような状態が続いていたため、3月17日より入院。23日には肺がん、しかも末期状態であると判明した。 出棺の様子。数見肇の姿も見える がんであるということを本人には、聖路加国際病院の院長から「このまま放っておくと肺がんになりますよ」というように伝えてあったという。 「私は武道家だから畳の上で死ぬわけにはいかないよ。できることなら、道場で稽古をしながら死にたいものだ」とは、常々大山総裁が口にしていた言葉。ニュアンスは違えど、総裁は最後の最後までがんと闘いながらの壮絶な討ち死に。まさに武道家らしい死に様であった。  院長によれば「最後まで寝たきりになるということは一度もなく、排泄にしてもちゃんとご自分で行かれていた。肺がんということで呼吸や声には多少苦しそうにしておられる時もあったが、かといって他人に何ら気を遣わせるわけでもなく、痛み止めの薬は一切使用せずに、たった一人でがんと闘っていた」という。  最後の夜となった25日午後9時に点滴を打ち、その後容体が急変して応答がなくなった。立ち会った弁護士は「まるで大きな樹木がゆっくりと崩れるようだった」と表現している。また、手術をする方法も一時は検討されたが、総裁自身が「私はサムライだから、自分の体にメスを入れてまで生きたくはない」と言ってこれを拒否したという。 K-1出場のため来日した、元極真のアンディ・フグとマイケル・トンプソン「死ぬ時は道場で…」という総裁の遺志を汲み、通夜と告別式は極真会館総本部で行われることになった。午後7時、神道の形式に乗っ取った通夜に訪れた約250人の参列者は次々と玉串を奉納。訃報を聞いた都内の弟子たちも続々と顔を見せ、さらに極真の名を大いに高め、今は残念ながら門を別にするかつての弟子たちも多く列席した。  佐藤勝昭(第1回全世界チャンピオン=佐藤塾塾長)、東孝(第9回全日本チャンピオン=大道塾塾長)、添野義二(第1回全日本準優勝=士道館)、真樹日佐夫(真樹道場代表)も姿を見せた。  翌27日の告別式には前夜を上回る約3000人の弔問客が訪れ、総裁に最後の別れを告げた。3日後に開催される『K-1グランプリ』に参戦のため、この日の午前中に来日したアンディ・フグとマイケル・トンプソンが、石井和義・正道会館館長と共に訪れたほか、佐竹雅昭、前田日明ら格闘家も訪れた。  午後2時23分に出棺、午後3時半に大山総裁の遺体は新宿区の落合斎場で荼毘に付された。ひとつの時代が確実に幕を閉じた。
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