新日本プロレス時代の試合にて猪木からビンタされる若き日の前田
10月1日に死去した元プロレスラーで、参議院議員を2期務めたアントニオ猪木(本名・猪木寛至)さんについて、で思い出を語った。
第一報は「朝10時ごろにネットニュースで見た」と言い、「ああ、とうとうか」と思ったという前田。最後に会ったのは「2~3年前に長野県松本市のプロレスの大会」だったという。
(写真)自身のYouTubeチャンネルにて猪木さんについて語った前田(C)前田日明チャンネル
その訃報を知って、「藤原(喜明)さんと話をした。藤原さんも自分も同じ意見で、最後の衰弱した姿を見たくないんですよね。だから自分は最後に対面して最後のお別れを言いに行こうと思ったけどやめました、そういう姿を見たくないのでと言ったら藤原さんも同じ意見でした」と、生前に会いに行くのをやめたとする。「あの元気な威厳のある猪木さんのあの姿で、アントニオ猪木という人間を記憶しておきたいというのがあったので」とその理由を話す。
「自分の方から押し掛けるのはどうなのかなって。ひと月前にたまたま会える機会があったんですけれど、その時はなかなか時間の折り合いがつかなくて会えなかったんですけれど」と、最後に会う機会があったとも。
前田は新日本プロレスの若手時代に猪木さんの付け人を務めており、「入門して2週間後に右も左もわからない状態で毎日の練習についていくのがやっとこさで。てんてこ舞いしていたんですけれど、佐山(サトル)さんが格闘技大戦争(キックボクシングの試合)に行くってことでピンチヒッターで猪木さんの付け人をやったんですけれど、失敗続きだったですけれどそれで怒られたことは1回もないですね」と「『どうだ、やれそうか?』とぼそっとギロっと見られて言われるくらいで」と、会話はほとんどなかったそうだ。
新日本プロレス道場でのスパーリングを振り返ると、「相撲みたいに四つに組んだら強かったですね」との証言も。
1983年5月27日の唯一のシングルマッチについては「今から考えると、しゃかりきになってハードヒットでやっているばかりがプロレスじゃないんだよ、ってことを分かってもらおうというのがあったと思う」と猪木さんの心中を察した。
また「あの人の受けは今から考えてもぞっとしますね。俺の全力の左ハイキック、そんなことをいきなりやられたら普通は避けるんですよね。避けもせずに、アゴに飛んでくるやつをどうやって受けようかと一瞬考えたんでしょうね。ジャンプしてアゴを上げて首に当てましたからね。凄いな、そこまでして受けるのかってビックリしましたね」と、猪木さんの“受け”の凄みについても話す。
そんな前田は「アントニオ猪木という人をよく理解できるようになったのは、自分で団体を興して選手集めから全部やって、なおかつメインイベンターとして団体運営をしていって選手を食わして…ということをやってようやくですね。ああ、あの時はああいうことを言いたかったのか、こういうことだったのかと分かって来る。そういう経験がないと分からないですね」と、若い頃は反発していた猪木さんの考えや行動が、自分も同じ立場になってみて初めて理解できたという。
そして「自分も亡くなった時にふと思ったのは、猪木さんが生きていた時代に自分も選手が出来るような年齢で、同じ空気を吸って同じ空間で生活できたのは幸運だったなと思いますね」とまとめた。
最後には「猪木さんから学んだ、太く生きたからと言って人生が短いとは限らない」との言葉を胸に生きていきたいと前田は語った。