3.11から1カ月、米国で戦った
――対談収録の今日は3月11日ということで……本当に久々に思い出したのですが、青木選手が東日本大震災から1カ月も経っていない2011年4月9日に、米国サンディエゴで試合(Strikeforce: Diaz vs. Daley)をしました。
青木 はい。ライル・ビアホーム戦でした。
――あの時は川尻達也選手と高谷裕之選手も出場したStrikeforceのビッグショーで。ギルバート・メレンデスと戦う川尻選手と、青木選手が現地の記者の取材を受けたんです。川尻選手は茨城だったから、その時の大変な状況を話して『みんなに勇気を』という話をして。
平田 ハイ。
──至極真っ当ですよね。その時に青木選手は「関係ないよ。地震で親が死のうが、別にオレは試合するよ。勝てば良いんだろ」って。
青木 ハハハハハ。
――米国のメディアは皆が取材の後で「アイツは頭がおかしいんじゃないか?」と私に話しかけてきて。こういう青木選手のメンタルをどう思いますか。
平田 変わっているなぁって……。
一同 爆笑
青木 でもね、3月11日は練習していたもん。地震が起こった時に八隅さんのところで。
平田 私はまだ小学生でした。ちょうど休みだったか何かで。自分とお母さん、お母さんのお姉さんとで大阪に行っていたんです。だから、あまり地震を体験していないんです。東京に戻れなくなったなぁって言っている時に、津波の映像が流れてきて……。
青木 僕は練習していてさ。第一波の時にすごく揺れて。「何だよ」って思いながらバックを取っていたの。で、北岡は横で誰かをガブッていたの。揺れても、誰も外に出ようとしない(苦笑)。すっごく揺れていたのに。
――当時のロータスは、私の自宅に今より近いので、どれだけ揺れたかは想像がつきます。家の庭とコンクリの部分が何かの遊戯マシーンと思えるほど、ズレて揺れ続けていましたから。
青木 僕らは「ヤバいんじゃない? でもいいか」と思ってスパーしていたら、宇野薫はやっぱりまともで。宇野さんが「やめて、すぐに出ろ!」って叫んで。それで何人か外に出たんですよ。それでも北岡はまだガブっていて、オレはバックについていて(笑)。で、「お前ら出ろ!」って宇野さんが怒ったんですよ。宇野さんが絶叫したのは、あの時だけ。
――不謹慎かもしれないですが、良い話です。
青木 揺れが収まってから、もう1回練習していたんですよ。やっていて、余震が来て、もう「打ち止め、まぁしょうがないか」って感じで終わった。それだけ、変わらず練習していたんですよ。あの時のメンバーは、10年経ってもまだやっているから。
平田 ……。
青木 それぐらい、みんな好きだったんですよ。
――あの揺れは本当に凄かったですけどね。
青木 僕たちは本当に……次の日は、僕と北岡さんだけだったかな。2人だけで練習して。狂っていましたね。あっ、あともう1人いたけど、誰かは思い出せない。地震の翌日も練習していて、物がないのよ。水がないとか。コンビニに何も売っていなくて。
そうしたら北岡さんは、麦茶でプロテインを割って飲んでいて。「水が売ってねぇよ!」ってキレていましたけど、「いや、プロテインを飲まなくてもいいだろ」みたいな話をしていた記憶があります(笑)。それだけブレていなかったと思います。
――いや、ブレていないですね。でも人としてはどうかなということですけど。「親が死んでも戦って勝つんだよ」って平田さんは言えますか。
平田 ……、いやぁ。
青木 でも僕、それは思っていますよ。いまだに。この仕事は親の死に目に会えない仕事だと思ってやっている。僕、祖母がDREAMのマッハ戦の前に亡くなったんですよ。「どうするの? 帰ってくる?」と聞かれても「帰るわけないでしょ」って。ウチの親もそう思っている。「帰らないよね」って。そんな感じのテンションでいるので。
――その想いはあっても、地震で日本のことを心配してくれている記者に対して、わざわざああいうことを言うかなとは正直感じました。
青木 僕が逆にビビッたのは、「じゃあ僕に何を求めているのかな?」って。「試合しないで帰ります」と言ったら困るだろって(笑)。
――川尻選手は「被災者の皆のために戦う」と言っていて、凄く対照的だったんですよね。
青木 僕は「みんなのために戦う」って思ったことがないんですよね。自分のために、自分が好きだからやりたいので。何もないんですよ。だから、そんなにのめり込まないほうがいいよ。好きになっちゃうと、困っちゃうから。
青木の格闘技への正直な想い、「好きになっちゃうと、困っちゃうから」の真意とは──青木真也が、平田樹に「格闘技、MMAとは何か?」について熱弁を振るった、題して「青木塾、開校」。両者にとって初めてのロング対談は、MMAPLANETにより行われ『ゴング格闘技』に掲載中。そして、ABEMAにて配信される。