(C)若原瑞昌/ゴング格闘技
2020年2月下旬に刊行されて発売2日目にして重版決定となり、コロナ禍でその後は一般的となったオンラインイベントを当時としては先駆けで急きょ実施するなど話題となった『書評の星座――吉田豪の格闘技本メッタ斬り2005-2019』(発行:ホーム社/発売:集英社)著者の吉田豪さん。
その『書評の星座』の第二弾が早くも企画されているという。いまやアイドルやタレント、漫画家から政治家まで幅広く“プロインタビュアー”として切り込み活躍している吉田豪さんが、そもそも世に出るきっかけとなったプロレス・格闘技のフィールドにいかにして足を踏み入れるようになったのか。著者にしては非常に貴重な「自分語り」となっている、本書収録の書下ろしコラムの一篇を特別に公開しよう。
「今回、単行本用の書き下ろしコラムを3本頼まれたから、せっかくなのでめったにやらない自分語りでもしてみようかと思う。
ボクは子供の頃からスポーツの類が大嫌いで、しかしそんな奴は昭和の時代には圧倒的な少数派だった。あの頃は野球が一般常識で、生きる上での必須科目ってぐらいだったから、みんな当たり前のように前日のプロ野球中継の話を振ってくるし、遊ぶ=草野球やキャッチボールだったりしたのも迷惑極まりない。草野球ならまだわかるけど、キャッチボールなんてただの練習でしょ?
なので当時、キャッチボールを誘いに来たクラスのヤンチャな奴を無理矢理外に追い出して鍵を閉め、そいつの靴を窓から投げ捨てたこともある。翌日どれだけ大変なことになるかとか考えるよりも、とにかくそのときの苦痛から逃れたかったんだと思う。
【写真】『ゴング格闘技』2001年3月から連載がスタートした「吉田豪はじめました。」
『伝説巨神イデオン』の再放送を全話見るために「親がうるさくなって毎日夕方は勉強しなきゃいけなくなった」と嘘をついてキャッチボールから逃れた時期もあった。こっちはただ大好きなテレビを見たいだけなのに、それを草野球&野球中継に妨害されるような時代だったのだ。ボクが興味あるのは、せいぜい『巨人の星』と『侍ジャイアンツ』ぐらいだったのに! 野球とかスポーツとかホントどうでもいい!
そんな人間だから小学校のクラブ活動も模型クラブ~将棋クラブ~模型クラブという流れで(2年連続で同じクラブには入れないルールのため、将棋のルールもわからないのに、教室で漫画が読めるという理由だけで将棋クラブに)、中学の部活は1学期から帰宅部。とにかくテレビで再放送のアニメやらドラマやらを見るのが好きだったから、姉がプロレスにハマってプロレス中継を半強制的に見せられるのも迷惑でしょうがなかった。こっちとしては裏番組の『戦闘メカザブングル』とかが見たいのに、なぜ全日本プロレス中継で大仁田厚がチャボ・ゲレロにトロフィーで血塗れにされたりする姿を見なければならないのか?
さらに姉は大仁田に手作りの人形を送り付けるまでになり、『ビッグレスラー』も定期購読。この『ビッグレスラー』というのが小中学生向けのはずなのに、なぜか木村政彦独占インタビューをやってプロレスの仕組みをバラしたりするとんでもない雑誌だったんだが……このとき全日本プロレスを生観戦したり(マイティ井上と阿修羅・原のサインを入手し、上田馬之助に追い掛け回される)、姉のプロレス関連書物を読んでいたことが後で役立つことになるんだから世の中本当にわからない。
そして高校生になるとパンクやサブカルに目覚めて、UWFファンの友人とか、極真&梶原一騎&『漫画ゴラク』好きで空手もやってる友人とかに対して「お前ら趣味悪いなー」とか言うようになるんだが……いまとなっては本当に申し訳ないことをしたと思う。
そのとき否定したような文化に、やがてボクはどんどんハマっていった。専門学校に入った頃、バイト先の店長が買っていた『週刊プロレス』(ちょうどSWSバッシングの頃)を読むようになり、ブル中野の金網デスマッチやら超世代軍の登場やらタイガー・ジェット・シン対馳浩~猪木対馳浩といった流れにもやられてプロレスに開眼。編集プロダクション勤務になってからは『宝島』の編集者に誘われてプロレスやシューティングを生観戦するようになり、梶原一騎作品や極真空手関連本を古本で買い漁った。そして大山倍達総裁が亡くなったら極真会館総本部道場の会見に潜り込むぐらいになった頃、『紙のプロレス』に転職。真樹日佐夫先生をインタビューしたり、寛水流二代目会長をインタビューしたりと趣味を活かしたことばかりやっていくことになった、と。ようやく本題に入るが、そんな人間にとって『ゴング格闘技』は最高の雑誌だったのである。
時代的にはK-1が盛り上がり、パンクラスが誕生し、UFCも始まり、グレイシー一族を掘り下げる『格闘技通信』が人気だったと思うが、ボクにとっては昭和の極真空手や黒崎健時、キックの鬼・沢村忠や藤原敏男、ついでにガッツ石松や具志堅用高なんかを起用しまくる『ゴン格』の方が梶原一騎の匂いがして、ずっと好きだった。そして、そういうことばかり原稿で書いていたら『ゴン格』から連載を頼まれたのだ。
最初は『吉田豪、始めました』という冷やし中華みたいなタイトルのコラム連載で、金も時間もたっぷり注ぎ込んでいた古本コレクションを活かしたネタが多かったと記憶している。石野卓球にも影響を与えた変態エロ本『Billy』(白夜書房)に掲載された黒崎健時インタビューの衝撃とか(梶原一騎と組んでいろいろ仕掛けていた時代の裏話が、当時の格闘技雑誌にはまず載せられないレベルでガチだった)、力道山対木村政彦戦直後にプロレス専門誌で行なわれた「プロレスはショーでいくべきか、真剣勝負でいくべきか」アンケートのこととか、これなんか100冊セットで80万円とかだった力道山時代のプロレス雑誌が元ネタだから完全に赤字! でも、そんな昔話ばかり掘り下げていたせいか、業界のベテランの方には気に入ってもらえたのだ。
その一人が『週刊ゴング』『ゴング格闘技』『ワールドボクシング』の編集長だった舟木昭太郎氏。舟木さんの新会社アッパーの起ち上げパーティーにも呼んでいただいたんだが、なぜかボクが坂口征二、真樹日佐夫、高森篤子(梶原一騎元夫人)といった超VIPと同じテーブルにされていたからビックリ。そもそも当時、真樹先生と篤子夫人が不仲なのはマニアには有名な話だったので、この2人が隣の席になってるのはマズいでしょ! とか一人でハラハラしていたら、真樹先生に「豪ちゃん、いま俺たちはもう仲直りしてるんだよ」とか言われて、2人の間に挟まってのスリーショットも撮影。この写真はボクの単行本『人間コク宝』のプロフィールで使わせていただいた。梶原一騎が大好きだけど梶原一騎には間に合わず取材できなかった人間として、これは本当に感慨深かったのだ。
【写真】2010年7月号の吉田豪氏連載『新・書評の星座』。
そして『ゴン格』が舟木体制になると、ボクの連載は舟木さんを同行してのインタビュー企画になり、黒崎健時、野口修(野口プロモーション社長でキックボクシングの生みの親)、沢村忠といった舟木さんのパイプがないとなかなか会えない人たちの話を聞くこともできた。後に何度も仕事させていただくこととなる高森篤子夫人の取材で梶原一騎宅に初めて行ったのもこのときだったし、「赤塚不二夫作『おそ松くん』のイヤミのモデルはつのだじろう」という衝撃事実を聞いたのもこのときだった。この連載では、舟木さんのちょっととぼけた発言も全部そのまま原稿にしていたので、普段のボクのインタビュー記事とは少し違った感じが出ていたと思う。
この後、『ゴン格』は何度も危機に瀕してリニューアルを繰り返すことになるが、なぜかボクの連載は生き残り続けることとなるのだ」■