2013年6月22日、「VTJ 2nd」で堀口恭司と5Rにわたる死闘を繰り広げた石渡伸太郎は、2017年12月31日、さいたまスーパーアリーナ最後の試合で、堀口と共にリングに立っていた。
高校、大学と柔道部に所属しながら、総合格闘技の練習を始めた石渡は、2005年アマチュア修斗で初のリングを踏み、戦極を経て、2011年、パンクラスで王者となった。
防衛を重ねるなかで、海外修行も経験し、“日本で強くなる”ために「Team OTOKOGI」を結成。その集大成として、堀口との再戦に臨んだ。
キング・オブ・パンクラシストとしてRIZIN参戦を決めた石渡は、2017年の年末、3試合を戦い抜くなかで、何を考え、何と戦っていたのか。
入院した夜、無くした記憶が戻ってくる恐怖があった
——RIZINバンタム級GPでは12月の29日と31日で3試合を戦った石渡伸太郎選手に、今回は主にGPの各試合について、お話をうかがいます。2017年は5月にハファエル・シウバを相手に5R戦いパンクラス王座防衛、10月にGP1回戦でロシアのアクメド・ムサカエフに判定勝利。そして年末にケビン・ペッシ、大塚隆史、堀口恭司戦と、強豪ばかりと5試合を戦ったことになります。
特に、年末は2試合の「勝者」でありながら、決勝で敗れたことで「敗者」として年越しとなりました。あの日、GP敗者のコメントもすべて聞いていったのですが、石渡選手だけは病院へ直行したため、話を聞くことができませんでした。今日は、石渡選手がGPでいかに戦ったのか、あらためてお話をお聞かせください。
「はい、よろしくお願いします」
——まずは、決勝の堀口恭司選手との試合後のことを教えてください。かなりダメージがあったと思うのですが……。
「GPの決勝が終わった後は、記憶が飛び飛びだったので……。最初は全部記憶がないところから始まって。リングサイドにいったん座って、控え室に戻るときはトーナメントのことを覚えてないし、RIZINに出たことすら覚えてなかったみたいです。それでセコンドから、『心配しないで、段々思い出すから』って言われていたみたいで……」
——大会に出たことも飛んでしまった……。いまは大丈夫ですか?
「いまは全部覚えています。試合の相手の動作も、ラウンド中のことも覚えているし、それに対して何をしたのかも全部覚えています。ただ……退場していったところだけは覚えていないです」
——負けた直後、どうやって控え室に戻ったのか覚えていない。
「それだけは出てこないんです」
——閉会式に姿はありませんでした。
「式、出られなかったです。後輩が出たらしいですけど。控室に戻ったところからスイッチがパチンと入って。『ココどこ? 何コレ?』ってなって。試合したこと自体を分かっていないし、両脇を抱えられてるから、『何やってんスか?』みたいな感じでした。『お前、堀口と試合したんだよ』って言われて。『やりましたね、でも4年前ですよ』って。そこから記憶を戻すことが始まったんです。『お前、大塚隆史に勝ったんだぞ』って言われて。『勝ちましたよ、3年前ですよね』って。『いや、今日やったんだよ』『2試合も今日やるわけないじゃないですか』って言い返して。そんな感じで『試合後』が始まったんです。思い出す最中にも時間が飛ぶんですよ。ぐるぐるって飛んで、ハッて戻ったり」
——控室でなだめられながら、少しずつ思い出していった?
「そこから次の記憶は、病院に向かっている車のなかなんです」
——……後遺症が心配です。病院ではどれくらい思い出しましたか。
「そのときはほぼ思い出しました。RIZINに出たことや、3試合やったことも。脳震盪が大きかったので、『CT撮りましょう』と。『ちょっとこれだと1泊入院させたほうが安心ですね。翌日も撮って大丈夫だったら退院しましょう』と言われました。その日の夜は血尿も結構、凄くて……。血の原液みたいな血尿が出たときは、死ぬんじゃないかなって一瞬、思いました」
——正月をそんな状況で迎えていたんですね。
「その夜は怖かったんですよ、なんか。病院の先生が言ってたんですけど、無くした記憶を取り戻すって怖いらしいんです。ブワーッて戻ってくるときにすごい恐怖感があって」
——フラッシュバック的な感じでしょうか。
「そういう怖さです。それでうなされてました」
——悪夢の初夢ですね。
「とりあえずは検査入院だったので、1月2日の夕方には家へ帰れたんです。でも、その後で治療費の請求が来て……それも悪夢でした」
——それはちゃんと必要経費に回してください(苦笑)。元日は病院で過ごして、痛む身体を引きずるようにして帰ったのではないですか。
「それが不思議なんですけど……元日から、もし脳震盪が無かったら、もう1試合やれって言われたらできました」
——どういう意味でしょうか?
「どこも痛くないんです。逆に29日の試合(ケビン・ペッシに1R4分31秒KO勝ち)が終わった後はあちこち痛くて、試合ってどんなにきれいに勝っても痛いんだなと思ったんですけど、31日が終わって、もちろん無傷ではないんですけど、過酷な状況で試合することに慣れちゃってて、もう1試合やれと言われれば別にできないことはないな、と思いました」
——うーん……心も体もそういうモードに入ってしまっていたんでしょうかね。でも、脳が揺れたのですから動いてはダメですよね。
「運動は禁止されました。力を入れたりするのも良くないということで、少しのんびりして。年明けは誘われたら、酒も飲まずに飯だけ食ってましたね、ずっと」
——暴飲暴食はしてない?
「いや、暴食はちょっと……。食あたりも経験して嘔吐と下痢を繰り返したり」
——……あれほどの激闘続きで、ダメージは簡単には抜けないんじゃないですか。では、体は動かさずにじっとしていた?
「自分のテンセンス(「TEN SENSE DAILY LIFE SALON」石渡が代表を務めるワークアウトジム&サロン)に行って、スタッフが指導してるところを、見学に行くみたいなことをしていましたね」
ペッシとは一つレベルが上だよというのは見せられた
——人に会うたびに大会のことを聞かれているでしょうけど、専門媒体らしく格闘技の話も聞かせていただきたいと思います。まずは、バンタム級GPを通して考えると、12月29日の試合の前に、福岡で10月、ロシアのアクメド・ムサカエフと戦っています。いま見返すとムサカエフ、かなり厄介な相手だったんじゃないかと思いました。一本でも差したらブン投げてしまう相手に、よく立ち上って勝ったなと。
「分かってもらえたら嬉しいです。ムサカエフ、実力のある選手だと思います」
——シード選手と比べたら、石渡選手は1試合多く戦ってきたわけですが、2回戦の相手ケビン・ペッシはムン・ジェフンに競り勝ってきた選手でした。ジェフンといえば根津優太選手、朝倉海選手、アンソニー・バーチャック選手に勝っているわけで、ペッシもしっかりとした実力を持っていることがうかがえました。そしてリーチがある。
「フフフ、それが何を勘違いしたのか、どこかの資料を見て、身長を173cmと思ってたんです。実際には178cmで、手足の長さは日本人でいえば180cmくらいの長身選手の感覚でした。でも173cmだと思い込んでいたから、計量のときに見たら、なんかデカくねえか? って(苦笑)。試合が始まって向き合って、1発目の打撃が来たときにやっぱり『あっ、デカッ』と。ずいぶん制空圏が広いなと思ったんですよ」
——いきなり廻し蹴りを続けて打ってきましたね。
「試合前のインタビューを見たら、全局面で自信を持っているんだなと思ったんです。ハイキックを蹴ってきたときに、彼の蹴りがムエタイのようにしっかり腰を入れる蹴りじゃないことは事前の研究で分かっていたんですけど、腰は入れなくてもスピードがあって長かった。だから、1Rにしっかり対処して削っていく作業が必要だなと思ったんです」
——アウトMMAをやられる可能性も考えたと。
「このペースではこいつ動かないだろうと。組みに来たのは、自分のヒザが効いた部分もあると思います」
——確かに、ヒザ蹴りを受けて引き込むような形で組んできました。その前にもシングルレッグを仕掛けてきましたが、石渡選手の片足立ちのバランスと対処には定評があります。そこを切られたペッシは、ヒザも突き上げられて組みを選択した。ジェフン戦で再三、バックを取ったように寝技にも自信があったんでしょうね。
「でも組んだときに力の差があるなと思いました。四つで組んでるときに重心が高かったし、タックルに来たときにすごく安易に寝たんです。もちろん僕が切ったんですけど。切られたにしても彼は立つべきだった。でも背中をつけて下からシンプルな腕十字とか仕掛けてきたから、ナメられてんだなと思ったんです。三角(絞め)とか取れると思ってんのかよと思って」
——下からの十字、三角を防がれたペッシはいわゆる柔術立ちで立ち上がってきました。
「こっちも別に寝かし続けようというつもりはなかったので、距離を近くしてパウンドや鉄槌で削ろうというくらいでした」
——そして再びスタンドに。遠間からローも蹴ってきて、制空圏が長いペッシにどうやって石渡選手が打撃を当てるんだろうと思っていました。
「スタンドの打撃のディフェンスが穴だと思っていたんです。でも距離は長い」
——フィニッシュの場面は……、オーソドックス構えのペッシがサウスポーの石渡選手の右前足にローを蹴って来て、それを石渡選手は前足をすっと引いてかわしました。そこにペッシは左ジャブから右ストレートのワンツーで前に詰めて来ました。そこに……。
「ジャブの打ち終わりでしたね。右に回りながら右フック、得意技です」
——かわして回ることで距離を潰したと。ペッシは前のめりに倒れて、追打もいらないほどの一撃でした。
「そんな倒れる? と思ったんです。あれを当てて次に繋げる用意もしてきたんで。でも実はずっとやってきたことがあって、フィジカルの部分で当たったときに強く打てるように強化してきたことがあったので、それがうまくハマったのかなと、少し自信になりました」
——しっかり拳も返っていました。
「そのあたりのフォームもいろいろ考えてやってきたことがあって、それらがピシャッとうまくハマって、あんな倒れ方したのかなと。自分が思っているよりも、当たると大変なことになるかもと思いました。あと、一つ良かったのは、あのあたりとは一つレベルが上だよというのは見せられたのかなと」
——なるほど。得意技を磨くために、取り組んできた成果が出たわけですね。しかし、この試合が終わっても優勝するためには、1日置いてあと2試合勝たなければいけない。どのように過ごしましたか。
「終わってとっとと帰って寝て、起きて。30日は計量は無くてもファンミーティングがあったので、さいたまスーパーアリーナまでまた行って、それを朝からやっていました」
——それは連戦する選手にとっては、キツいですね。
「関係ないです。精神的なものだけです。そういうことを嫌がらなければいいだけで。ただ、帰ってきてジムでコンディショニングしてるときに、あちこち痛かったんです。相手がちょっとつまずいたときに顔のあたりを蹴って蹴り足を痛めたりとか、肋骨や古傷も痛めてました。そういうのもあって……大変だけど頑張ろう、と。1日空いての連戦は初めての経験ではありましたけど、ここで戦うということは“そういうものだ”と思って作ってきてたので」
[nextpage]
大塚は以前よりブロッキングを多用していた
——準決勝の相手はカリッド・タハに一本勝ちした大塚隆史選手に決まりました。あの試合は当日に見ていたのですか。
「試合の日はなんとなくモニターで見た程度で、翌日に映像を見ました。5分ぐらいですけど、いくつか大塚選手が考えていることが分かったんです。公開練習のときのインタビューと彼の試合を見て、意図が感じられました」
——それは打撃に関することでしょうか。
「もう2回も戦ったので……、これは別に言ってもいいと思うんですけど、公開練習で『キックボクシングを練習してきた』って言ってたじゃないですか。それでタハ戦を見たら、ブロッキングをするようになったのが分かったんです。つまり打撃をしっかり見よう、しっかり受けようという気持ちになっているのが分かった。それが一つの軸になったというか。以前よりブロッキングをするし、前よりも打撃を怖がらなくなっていた。よく見るようになって、自分からも積極的に仕掛ける。しかもきれいに仕掛けるようになっていたんです」
——大塚選手がK-1やKrushファイターたちとスパーをしていくなかで打撃に自信がつき、スタイルにも変化があったと。
「相手の打撃に負けないで、その上で組んでテイクダウンを取るということをやりたいんだろうなと自分は読んだんです。“打撃で負けないで”と思っている。こっちとしては、そこを負けさせてやることしかないわけです」
——うーん、勝負で勝つというのはかくも奥が深く、心技体、人柄も出ますね。“打撃で負けない”と強化してきた相手に、まずはそこを崩そうと石渡選手は考えた。ところで、大塚選手がタハを最後にネックロック、ギロチンで仕留めたことはどう感じましたか。
「あれはタハがいくつかミスをしているし、僕はこういう風にはならないだろうなと思って、特に警戒はしていなかったです」
——あの際でタハがスイッチを仕掛けたことで捨て身気味になってしまった。しかし、大塚選手の組みが強いことは疑いようがない。石渡選手との試合では初っ端、大塚選手が左を振ったところに石渡選手は右をかぶせようとして、そこにカウンターで前足にローシングルで入られました。あれは想定内でしたか。
「いえ、あそこは転んじゃったって思いました。立つ自信はありましたけど、あれはミスでしたね。どこかで挽回しないといけないなと思いました」
──フックガードから立ち上り際にバックに回らせず、コーナーを背に立ちました。ケージとリングではそのあたりも変わってきますか。
「いまケージに行ったらたぶん違和感ありますね。いまはもうリングのほうに慣れちゃっています。円形に近いのと四角では空間が違う。それが一番、大きいです」
——福岡で久しぶりにリングでやって、その後も練習してきてアジャストできた感じなんですか?
「試合前に『リングで練習してきた』って言ってたんですけど、実際はほとんどできなかったんです。ただ、前回の試合でやった感覚がそのまま残っていたから大丈夫でした。その意味では、実戦って強くなるなと思いましたね。パンチも右で倒した感覚が残っていたから、早くこれを当てたいなと思っていたくらいで」
——しかし、最初にダウンを喫したのは石渡選手でした。最初ワンツーで前に出ていって、さらに右フックを打ったところに……。
「ワンツーで左のストレートを打ったときに、(体が)左に入った。それで打った右にカウンター食って倒れたんです」
——ワンツーからロープに詰めて追って行きましたよね。そこからちょっと不思議な間がありました。バランスを崩したような……。何というか……、どこかを傷めているように見えましたが……。
「それは…………誰しも古傷はあります。ましてやこのときは2試合目なんで、そういった部分が出ることはあって、踏ん張れなかったり。それは競技人生でずっとついてまわるから、大事な場面で出なければ……このときはたまたまバランスを崩してもらってしまいました。ただ、もらった瞬間は見えてないですけど、倒れてもクラクラしているとかそういうのはなかった。フラッシュダウン的な感じでダメージはそれほどなくて、立つときに1、2発パウンドを受けながら……腹立ったんですよ、久しぶりに。試合中に怒ってた」
大塚に“こじ開けられて”、試合中に怒っていた
——何に対して怒ったんですかね。
「何、殴ってんだよと思って(笑)。コイツ、ぶっ飛ばしてやろうと思ってました」
——石渡伸太郎、怒りモードに入ったと。たしかにフラッシュダウンから右で脇差しすぐに立って、左は引手を持ったら、かなり強引に大外刈で……。
「投げました。そのへんまではほぼ体が勝手に動いた感じです」
——柔道時代に培った動きが、ああいう場面で無意識に出るんですね。倒して、気持ちが感じられる強いパウンドを打ちました。
「そこから記憶がちゃんとしているシーンはトップを取っていて……とにかく怒ってました(笑)。ケンカの気持ちになってましたね」
——ダウンを取られた直後に、ああいった形でやり返せるのはファイターとしての強みだと思いました。
「自分では“2つ”持っていると思っているので。格闘技と、格闘技のここ(胸を指して)をこじ開けられると、ファイト──闘争心そのものが出てくるっていう。そこを大塚選手がこじ開けてきたんだなと思っています」
——第2エンジンがあるわけですね。パウンドして、上体を離せば足を蹴って、足を払ってはフットスタンプと強気で盛り返しました。1Rが終わった時点では、ジャッジをどうとらえていましたか。
「たぶん印象的には俺が負けてるんだろうなと思ったんです。でも、2人の間では1個、自分が上に立ったなというのはあったんです。“大塚と僕の間では”。互いのやりとりでは1枚上に立ったなという手応えがあったんです」
——……ファイターならではの感覚なのでしょうね。相手を飲んだ、コントロールして優位に進められるという。
「正直、試合前は大塚選手を倒すんだったらKOでないと難しいと思ってたんです。判定で競り勝つのは、彼に対しては難しいかもしれないと。ビッグダメージを与えないと勝てないんじゃないかというのはありました。でも、あの1Rが終わったときに、競り勝てると思ったんです」
——競り合いでも勝てる、と。2R目は先に自分から前に出て、ボディストレートなど下も突きながら圧力をかけて行きました。
「見ているお客さんにはあまり伝わらなかったかもしれませんけど……、大塚選手、ダメージを蓄積させていたと思います。よろけてつまずくようなシーン、滑っているように見えたと思うんですけど、戦ってる者からするとダウンに近い。大塚選手に言わせたら違うって言うかもしれないですけど(笑)。それこそペッシの顔面に打ったやつを、ブロック1枚挟んでいますけど、何発も被弾させているので、結構ダメージは蓄積させたと思います。ボディにも相当いいのが入ってたんで。逆に、コイツ偉いなと思いました。気合入れてきたんだなと思って、大塚選手から苦しくても負けないぞという気持ちが伝わってきて……」
——大塚選手も、2014年の大晦日に、同じさいたまスーパーアリーナで石渡選手に敗れたことを忘れたことはないと思います。観ているこちらもテレビで“失われた10年”などと言われると、失われてないぞ、という気持ちになりました。
「……あの大塚選手がグラグラ揺れながらも倒れずに向かってくる姿や表情を見て、……敵ですけど、仲間みたいな気持ちもありましたよ。あぁ、コイツもここに賭けてきてくれてるんだなって」
高い志を持った仲間のような気持ちで戦っていた
——互いの細かい攻防の積み重ねのなかで、心も体も技も、それぞれに勝負がある。大塚選手は打撃から頭の位置をすっと落としたレベルチェンジが巧みで、シングルレッグも得意としています。片足を掴まれた石渡選手はスネを外に当ててテイクダウンを防ぎながら、コーナーを背にした。そこからバックを奪う熱い攻防がありました。そんななかで、大塚選手の組み手に対し、石渡選手は差していた右腕を内側に入れて、ある部分を持ったじゃないですか。あそこはバックを取られる可能性は……。
「……よく見てますね。詳しくは言えないですけど、あそこはイジー・レスリング(※ジョンジョーンズらを指導するイジー・マルチネスによるシカゴのジム)で練習してきた成果が出ています。よく見る攻防のようですけど、手足の位置とか変形がされているから、たぶんコピーはできないはずです。あれは……」
——なるほど……。五輪レスリングでなく、カレッジレスリングや壁レスリング、そしてMMAならではの格闘技の醍醐味があります。そこに石渡選手が学んでいるムエタイクリンチや、ユニファイドならヒジ打ちも入ってくるわけですから、格闘技は面白いものですね。
「格闘技は相対的なものでもあるから、相手の反応によっても変わってきます。大塚選手にクラッチを深く組まれたら、そこも変えなくちゃいけない。そこはすごく警戒しました。次のアタックが来たら即行、動こうと注意はしていました」
——2Rに2回、その攻防がありましたが、石渡選手はテイクダウンもバックも取らせず、ブレークとなりました。大塚選手のローブローを受けた後、3Rへ。ここでは決定的な場面を作ろうと?
「2R後にコーナーに帰ってきてセコンドに、『ダメージは俺が与えてると思いますけど、見てどうですか?』って聞いたら、『どう取られるか分からないから3R目、勝負かけて前に出たほうがいい、倒しに行っていいよ』って言われて、『多少リスクはありますけどいいですか?』って聞いたら、『勝負しにいこう』って言われたので『分かりました』って。で、少し距離を近くしました。プレッシャーを強くして」
——たしかに3R、先に圧力をかけて行った石渡選手は、サウスポーからコーナーに詰めて右フックで飛び込みました。それを上体を屈めてかわした大塚選手がそのままヒザを着きながらカウンターのダブルレッグに入って、石渡選手は尻餅を着かされました。でも、すぐに片足は後方に飛ばして切って、大塚選手は右足を両足で挟んでシングルレッグに切り替えてバックに回りました。あの場面、一瞬後ろにつかれましたが、石渡選手はクラッチはさせずに正対して離れることに成功しました。力の入る攻防でした。
「あそこは、ダブルレッグを切ったときに自分でもよく反応したなと思いました。米国修業の成果が出たなと思いながら切ってました」
——スタンドでは再び圧力をかけて右ボディストレート、左ハイから左ストレートを受けた大塚選手が押し返しにきて、右の蹴りから右フックで跳び込んできました。そこに石渡選手は左フックをかぶせてダウンを奪い返しました。下がりながら当てましたね。
「あれ、外から見るとフックに見えると思うんですけど、カウンターのストレートを頭ずらしながら打っています。コナー・マクレガーと一緒で、自分の得意技のひとつです」
——ヘッドスリップからのカウンター、サウスポーのマクレガーが見せる動きと同じパンチだったんですね。大塚選手がダウンした瞬間、サッカーキックも速かったです。
「人の顔が近づくと蹴る右足になってるみたいで(笑)。ダウンさせてから蹴るスピードは誰よりも速いんじゃないかと思います。元々パンクラスにはあったけど無くなったから、RIZIN初戦のムサカエフ戦では出なかった。それが今回は出ました」
——さらに左フックで大塚選手が再びダウン気味に足を手繰りに来たところをがぶって切ってサッカーキック。続けて左右の猛ラッシュでした。拳は大丈夫かな、と思うぐらいの。
「ちょっと痛めてましたけど。ただ、我慢できないほどの痛みじゃなかったので。もう少し細かいのを当てたかったんですけど、ちょっと力んじゃいました。決定的な場面は作りましたけど、次の試合への期待感も持たせないといけないと思って倒しに行ったんですけど……KOで押し切らないといけないシーンだったなと、後で見て思いました」
——「次の試合への期待感も」と、あの場面で思えるものですか……。しっかりコーナーに詰めてボディにも打ち分けて上下効かせていたように見えました。
「トーナメント(で次の試合がある)というのもあったんですが、フィニッシュしないといけないなって」
——終わって握手をして、互いに少し言葉をかわしていましたね。
「さっき言ったような、本物の格闘技を見せる、高い志を持った仲間のような気持ちで戦っていたので、終わった瞬間、『ありがとう』って言いましたね」
[nextpage]
グローブタッチのときに言ったんですよ。「来たよ」って
——GP準決勝で大塚選手が積み上げてきたものも感じられる試合だっただけに、あらためて相手の夢をその体で直接潰して勝ち上る格闘技のシビアさを感じました。しかし、これで2試合をクリア。その日のうちにもう1試合ある、というのは……。
「正直に言うと、そんなに余裕は無かったんです。ほんとうに1個ずつやっと勝ち上がってきたので、辛かったですね。帰りたかったです(笑)。今日まだやんのか、嘘でしょって感じでした」
——……準決勝が3年ぶりの再戦という大一番で、続けてここ数年の集大成的な試合が2日間で3試合目というのは、どう考えてもタフなものでしょうね……。数時間後の試合に向けて、もう1回、どのように作り直したのでしょうか。
「マジかよって思ったのは試合後の5分ぐらいで、そこからは、じゃあ準備しなきゃ、とまた試合前の準備に追われてました。イチロー選手じゃないですけど、ルーティンがあるので、それが時間がかかるので早くやらなきゃ、みたいな」
——単にアップだけではない、石渡選手独自のルーティンがあると。
「今回の試合に向けて、自分のコンディションと向き合う方法を見つけたんです。傍から見たらそんなに変わらないかもしれないですけど。練習仲間からよく言われてたんです。『本気でやってないんじゃないかって思うくらい調子の良くないときと、逆にどうしたんだっていう強いときがある』と。自分でもそれは分かっていて、コンディションの浮き沈みがすごくある。その波がなんなのかということを競技生活を長くやってきて、やっと見つけたんです。怪我とかは別にして、今回そのやり方で、いいときの状態で持っている力を全部使って戦えたというのはあります」
—─それはコンディショニングトレーナーらと作ってきた?
「そうです」
——もう少し教えてください。試合前にそのコンディションと向き合う方法では、どんなことをするのですか。
「そうですね……細かすぎるんですけど、関節可動域とか、筋肉の固さとか、そういったものをチェックするような感じです。それを決勝に上がるときもちゃんと保っていました」
——でも満身創痍というか、いろいろな部分に負傷があった。次、戦えるのかなとは思わなかったですか?
「当然、痛かったですけど…………、あと15分終わって死んじゃったら、しょうがないって、そういう覚悟はあったので」
——……そんなことはあってはいけないですけど……そういう覚悟を決めて試合に向かっていたということは、想像はできます。堀口恭司vsマネル・ケイプの準決勝はモニターで見ていたのですか?
「見てました。マネル・ケイプ、打たれ強いなと思って。天才肌なんだろうなと思いました」
——あの態度はいただけないものの。
「態度は、堀口選手に対してはなぜか紳士的でしたけど、俺に対しては終わってからもなんかやってたので……。堀口くんが言っていたように僕も、MMAを野球やサッカーのようにスポーツとして認知させたいって思いがあります。……同じ大会でも、体重超過の問題とかもあって、ちゃんと競技者としてやっている人間を見せたかった。だから、ああいうケイプの態度はファンが楽しければいいかなと思う部分もありますけど、ある程度わきまえてやってほしいと思っていました」
——たしかに。試合では、ケイプのバッティングで堀口選手の意識が飛びました。そのピンチから持ち直してテイクダウンに切り替えての一本勝ちを見て、どのように感じていましたか。
「やっぱ半端じゃないなと思いました。強さを見せつけたというか。練習の幅、練習量、そういったことが出ていました。あのバッティングは効いてましたから。足の動きが明らかに落ちていたし。そこから切り替えて一本取ったのが本当にすごいなと思いました」
──そして決勝戦。花道で咆哮して、リングに向かいました。この時の気持ちは?
「頑張ろうって。2日で3試合目なので、いい意味で力は抜けていましたね」
──先に石渡選手が入場して、堀口選手が続けてリングイン。サイドステップでリングを一周したときに、コーナーにいた石渡選手に拳をコツンと合わせにきましたね。
「そうでしたね。だから、自分もリング中央でのグローブタッチのときに言ったんですよ。『来たよ』って。約束通りに(決勝に)来たよって」
──そうだったんですか……。堀口選手の反応は?
「無言で肩をペンペンって叩いてきました。そうか、これから戦うんだなって僕も思って、コーナーに戻りました」
すごく楽しかった。日本刀で突き付けられているようで
——互いに4年前と比べて、様々な面で強くなっている。今回の堀口戦に向け、どんな作戦を考えていましたか。
「作戦は……最後の結果とはすごく矛盾しますけど、追いかけない。カウンターを合わせるっていうものでした」
——あの飛び込みに。たしかに合わせようとしてましたね、入ってきたところに右を。
「堀口くんはやっぱり最初、容易には入ってこなかったです。そこが賢いですよね。そこでポコンと入ってきてくれれば僕にもチャンスがあった。でも試合の入りが凄く慎重だった」
——1R最初の1分30秒過ぎまで、共に間合いを測りつつ緊張感ある神経戦でした。「先の先」「対の先」「後の先」どれもがあるような。堀口選手は牽制の前足へのローと右ミドル。この入りをどう感じていましたか。
「何て言うか……これ視聴率大丈夫なのかなと考えてしまいました。生放送だと聞いていたので、このやりとりは伝わるのかなと。勝負どころを作りにいかないといけないなと思いました」
——そんなことまで気にしていましたか……。堀口選手は左右スイッチしながら出入りのフェイント。そこに石渡選手は“反応”をしていました。カウンターを合わせようと。
「堀口くん、全部入ってくるフェイントでチェックしているんです、僕の動きを。だから同じ動作をしないように気を付けました。もし全部右でかぶせていると、それに対応した攻撃で飛び込んでくるので。喧嘩四つで前手と前手が触角みたいに触れたときも、足の位置や手の位置、全部測りながらやっている。叩いたときのリアクションも全部見てる……でも、あのときすごく楽しかったんです。日本刀で突き付けられているような感じで、ゾクゾクするというか」
——拳が交錯していなくても互いに斬り合っている、と。
「何かの瞬間に少し甘いリアクションとかをすると、『駄目だ、もっと集中だ』みたいな感じでした。本当に一斬りされたら終わりだって感じていました」
——あのメインの雰囲気はタイトルマッチのような空気、さいたまスーパーアリーナでいえばヒョードルvsミルコ戦のときのような厳粛な空間でした。2人が勝ち上ってきたことへの敬意が観衆から感じられて。でも、その序盤で「生中継だ」と言われたことがひっかかってしまった……。
「スポーツを見せると言いながらそれに徹し切れず、自信を持ち切れなかった自分の負けなのかなと思います。……普段あんまりハイキックなんて狙いに行かないのに、それで結果蹴り足を掴まれて倒されているので……」
——ただあの蹴り、結構ハードヒットしているんです。
「カウンターで入ってましたね。相手がのけぞってそこに左(フック)でも殴ったんです。少し効いたかなって」
——はい。でも堀口選手はその蹴り足を肩口まで上げてスラムしてきました。堀口選手、フィジカルも強くなっているなと感じました。
「そうですね。あの対処も素晴らしいというか。足を下ろせなかったです。僕、片足立ちであんな風に転ばされることは滅多にないんですけどね。それに体の強さには正直、驚きました。体が強くなっているなというのは、公開練習のときに見て分かっていたんですけど……」
——あの公開練習で堀口選手はシャドーだけでした。その動きで、直に見ると分かるのですか。
「分かります。体格が以前と違うのも感じたし。動きのキレや安定感で体が強くなってることは分かってたんですけど、実際に組んだら……もう本当にそれ以上でした。コツコツ受けてるパウンドが、これまで経験したことがないようなパウンドでした」
堀口選手のパウンドで何度もブラックアウトしていた
——石渡選手の身体に異変があったにしても、ああいう形でもらい続けることはこれまでに無かった。
「初めてですね、あんなことをされたの。プレッシャーが凄かったです。パウンドはハファエル・シウバのそれでした」
——日本人選手にない、海外選手のフィジカルだった。グラウンドになってからも、ほとんど背中を着くことがない石渡選手が背中をつけさせられました。
「圧力そうとう強かったですね……。パウンドのプレッシャーと、パスガード、サブミッションのプレッシャーもかけてきてたし」
——腰を切られてパスされかかった足をハーフに戻して、「もう1回フレームを作れ」という植松直哉コーチの声に、石渡選手が顔の前に腕を入れようとしていました。そこからああいう形で後ろを向くことは、普段の石渡選手の試合からは想像できませんでした。
「……おかしいと思いますよね。あのときの自分の状態では、ああせざるを得なかったんで……それが必要以上の大きなリアクションにはなってしまいましたけど……そうでなくても、抑え込まれているときに、彼がとんでもない量の練習をやってきていることを、肩で感じました」
——マウントを取ってからの堀口選手のパンチがえげつない音がしていました。
「打ってくるパンチがとんでもないパンチなんです。一発一発、目の前が暗くなる。脳みそが中心まで殴られているような……。気がついたときには、リングの外に顔が出て殴られてたんです。あのとき、1回、1回、ブラックアウトしていました。ダウンするようなパンチを数十発、打たれていたような感じで。殴られて気が飛んで、殴られて気が戻って……それでセコンドの声が、『立て、立て』って聞こえてきて、“立たなきゃ”と思って……」
——残り20秒以上あって、一発ごとにブラックアウトしていた……。アゴも上るようなパウンドを受けていたのに、ロープ外に出ていた頭を自分で中に戻して、コーナーを背に立ち上ったというのですか……。
「一瞬、気が戻ったときに声が聞こえて、もう無意識ですね」
——体に染みついた動きでコーナーを使って無意識に立ち上がった。このときも大塚戦のダウン後のように、けんかモードになったんです。覚えていますか。
「いまは覚えてます。沸いてるなと思ってました。お客さん沸いてるわって。そこで前に出て打ち勝てたので。ただ……今となってみれば、あそこは(堀口が)付き合わなかっただけなんだなとは思います」
——気持ちは感じました。やってやるぞという
「本能的な部分ですね。元々そういう性格です(苦笑)」
「次もらったら立ってられないから勝負しに行くよ」って
——1R終わった時点で相当ダメージがあったと思うのですが、インターバルではどう考えていましたか。
「帰ってきて言ったんです、セコンドに。『次もらったら立ってられないから、自分から出て、倒されるかもしれないけど、勝負しに行くよ』って」
——…………。
「ブラックアウトして起きての繰り返しだったので、次もらったらブッ飛ぶのが分かっていたので、自分から勝負しようと。あそこでまた1Rの序盤みたいに、じりじりやられて殺されたら後悔するじゃないですか。だから前に出て……。でも、試合前に絶対にやっちゃいけないことは、堀口の近くに行くことだって思ってたんです」
——……それなのに、最後は自ら近くに行った。
「そうせざるを得ない状況を作られちゃったので」
——セコンドに宣言した通り、2Rは一気に前へ。作戦では「追わない」と決めていたのに、追っていった。堀口選手の右ミドルと石渡選手の右ストレートが相打ちになって、さらに詰めて行った。
「あそこで少し嫌がっているように見えたんです。それで前がかりになって、また大塚戦と同じミスをしている」
——左を振って崩れたところを打ち抜かれた。痛めた箇所のために踏ん張れていないんじゃないですか。
「……それはたぶんそうじゃなくてもバランスを崩していたと思います。あの瞬間、僕は見えてないし。堀口はしっかり見てる。ワンミスを許してくれない。強い選手とやると、一つミスするとそれがフィニッシュにつながるので。たいていの選手は1個、2個ミスしても見逃される。あるいは気付かない。でも堀口くんはそれを許してくれない。それが、実力の差なんだなって感じます」
——カウンターで右をもらって、前のめりに倒れて、すぐに追撃のパウンドをもらった。冒頭で話してもらった通り、試合直後は記憶は無かったわけですよね。
「終わったときに、上を見たら人が集まっていて、『寝てて、寝てて』って言われて、『嫌だ、嫌だ』って言って。『堀口くんのところに行きたい』って言って、堀口くんに挨拶しに行って、セコンドに挨拶して……そこまでは覚えてるんです。そこから覚えてない。リングサイドに1回座って、表彰式を待っているところが一瞬、プツッとあって、あとは医務室にいた」
——自分がいる場所も分からず、RIZINに出たということさえも飛んでいた記憶が、徐々に戻ってきて、こうしていま詳しく話してもらっていることにホッとしています。
「記憶が戻ってきた当初は、やられたシーンばかりがフラッシュバックするんですよ……。マウントで殴られているシーンとか。だから……悔しさだけがずっと残っていて」
[nextpage]
“競技者としてやっている人間たちの戦い”を見せたい
——今日は、悔しさだけじゃない言葉も聞くことができました。柔道をやってアマチュア修斗から出て、戦極を経て、パンクラスで王座を獲得し、防衛を続けてきました。海外も視野に入れていた石渡選手がRIZINに出ると聞いたとき、個人的にはちょっと意外でした。
「分かりやすい言葉で、4年前に対戦した『堀口くんにリベンジする』と言ってきましたけど、堀口くんが言っていたように、日本でもこの競技がスポーツとして認知されたいっていう……それを僕も一緒にやりたいという気持ちがありました。その主役は僕がやりたかったんですけど、それは取られちゃったけれども、“競技者としてやっている人間たちの戦い”を見せたいって」
——それを地上波で、世間に届く形で、堀口選手や大塚選手とだったら見せられると。
「それをしたいという思いがあって……。パンクラスで世界にこういうスポーツがあるって伝え続けた。パンクラスは世界標準のスポーツにしていくってことでルールも変えた。僕も同じ思いで戦っていたので、それをRIZINの舞台でも示したかったです」
——その思いはいろいろなところで伝わっていると思います。29日の試合後、バンタム級GPの試合を見たマッチメイク担当の柏木信吾さんが泣いていました。「選手たちに感謝です。この試合を本線に……」と。テレビ放送というしばりがあるなかで、体重超過の試合が中止になったことも、直接的ではなくても、GPの試合が影響を与えていると思います。何よりファンが支持をした。
「そういった意味では、仕事はしたのかなとは思いました」
——まだ、心身ともにダメージの残る状況ですが、今後について考えていることはありますか。
「競技者としてはダメージと相談しながらなので、簡単に『あと5年頑張ります』とか言えないですけど、次が最後になるかもしれないし、もう最後だったのかもしれないし……競技者としては、試合が終わったばかりのいまはなんとも言えないです」
今回の試合は「OTOKOGIとアメリカの戦い」だった
——「競技者としては」という言い方に、石渡選手のなかにはもう少し俯瞰した立ち位置を感じます。
「今回の決勝は──スポーツとして認知されたいと思っている人間が、日本じゃ出来ないと言ってアメリカに住んでいる状況があって、一方で日本ではTeam OTOKOGIを作ったわけじゃないですか」
——はい。海外での出稽古を繰り返すだけでは外国人選手に及ばない。かといって皆が皆、現地にずっと滞在することも出来ない。ならば、向こうで練習してきたこと、考え方を学んで日本で採り入れようと。
「そうです。それに各コーチの繋がりという面も。組み技のコーチと打撃のコーチが、試合の時だけ一緒にいるんじゃなくて普段から繋がっていて、試合が決まったら話し合って作戦を立てられるような環境を作りたかった」
——実際、植松直哉コーチも新井誠介コーチも共に練習から見ていますね。
「だから……今回の試合はOTOKOGIとアメリカの戦いだったんです。それで、完敗だったわけです」
——……そんな想いも抱えて臨んでいたんですね。VTJ後、一時期は、堀口選手もOTOKOGIに出稽古で通っていました。そしてUFC参戦を決めて、渡米した。
「だから、またそこからなのかなって。僕はアメリカで住んでやっていくというのは考えていないので。これは今後もずっと日本人選手が背負い続ける課題だと思うんです。ほんとうはMMAの業界を変えるような仕組みを作っていかないといけないのかなというモチベーションはすごくあるんですけど……どうしていいか分からないし、賛同する人がどれだけいるかも分からない」
——そこはメディアも含め、世間の意識を変えて、ファイトスポーツとして成り立つよう、スポーツとして認められて様々な場面で予算がつくように働きかけていかなくてはいけないです。そんななかで、石渡選手は日本の環境においても強くなれるように、と考えている。
「はい。堀口くんと1対1で戦いましたけど、チーム戦だったんです。OTOKOGIのコーチたちと出て、向こうはアメリカのコーチたちと出てきた」
——そうですね。かつてはDEEPで戦い、WEC、UFCで活躍したマイク・ブラウンが堀口選手を指導して、打撃コーチと共に乗り込んできた。ただ、堀口選手も米国での練習がほんとうに気がおかしくなるほど孤独だと、吐露していました。
「そうでしょうね。やり続けてすごいですよ。誰もができることじゃないことを彼はやっている。ただ、日本人ファイターとして僕は、やっぱり日本で強くなっていきたいんです」
——それを証明したかった。
「どういうモチベーションで、これから何をしようかなって、試合後ずっと考えています。環境づくりが先だと思うんです。今、日本だと少し賢くて、自分でいろんなことを消化できる人間はある程度まで上に行ける。でもそうでない人間もいる。底が上がるとたぶん上も上るんじゃないかって」
——ボトムをもっと底上げしたいと。
「いまOTOKOGIに入れる人たちは、何とかしようという選手ばかりだし、ある程度の所得がファイトマネーで得られる人たちじゃないとできない。でも格闘技って、効率よくやれば練習はそれほど長くないじゃないですか。例えばアルバカーキ(ジャクソンズMMA)に行っていたときなんて、朝練習して、昼過ぎぐらいにレスリングやって、もう終わりなんです」
——その間の時間も含めて、人生を充実させている。
「日本の場合だったら、選手がその後にしっかり働ける。例えば朝と昼に練習して、それがちゃんとシステムとして確立されたもので、ちゃんと強くなれる練習であれば、その後に時間があるから、将来のために勉強して時間を使ったり、収入を得るために使ったりとか、そういうことができて、人生をもっと前向きに進んでいければ、よりファイターとしても集中できて、もっと優秀な人材が入って育っていくんじゃないかなって。そういう思いが、試合が終わっていろいろ考えていくうちに、浮かんでくるんです」
——有望選手には住み込みで指導をしてもらい、スポンサーも見つけて、という形を試みているところもありますね。
「アメリカで修業中に、イジーの姿を見てて、ほんとうに素晴らしい職業だなって感じたんです。選手たちを引っ張って、人生を明るい方向に持って行って、レスリング選手だったら、奨学金でいい大学に進学して、両親からも感謝されて」
——それを日本の格闘技でも実現させたいと。格闘技のジムやクラブが文化としてアメリカの生活のなかに根付いていて、周囲の理解もある。格闘技は人生を豊かにするものだと。日本ではオリンピックスポーツでは国や企業がサポートして成り立っている部分もありますが、そうではない格闘技は……。
「格闘技を一生懸命やればやるほど社会人としては遅れていくという状況じゃいけない。そうじゃない人たちは、本当にごくわずかのトップの人たちだけでいいのかって」
——優秀な人材が離れなくてもいいように。いまは年齢との兼ね合いのなかで、その焦燥感の中で強くなっていかなくちゃいけない。
「僕もずっとそれと戦ってきました。だから、それを変えたい。年齢だけは本当にもう取り戻せないので、僕がまだ24歳だったら自分がやって見せればいいんですけど、そうじゃないのであれば、環境を作らないと。自分が戦いながらそれができれば一番いいんですけど……。OTOKOGIはそういった環境づくりの一歩だったんです」
——そのために、より多くの人に見てもらえる場で、2人の試合をやる必要があったんですね。観てもらえれば、それが体重差や技術差のある試合とは違うと分かってもらえるだろうと。しかし、その役割は選手に背負わせちゃいけないです。メディアも言い続けないと。
「それをしないと、たぶんこの業界は終わっちゃう。下火のまま、あるいは小さなブームのままで。……イジーを見て、この人みたいになりたいなという気持ちがありました。それは、自分が競技者として今回で一区切りついたとか、競技者としてもう諦めたとか、そういったことではないんですけど、今の僕のモチベーションは、これまでとはもう一つ違うものを追い求めながらやる時期が来たのかな、とも思っています」
誰ともやり残していない。でも最後は……
——今回の試合で、ファイター石渡伸太郎の知名度が上ったのもたしかだと思います。
「いまはいいランクまで来れましたけど、たぶん、最初は誰も僕のことなんか気にしてなかったし、そこから比べたら、ずいぶん成長したな、とは自分で思っています」
——もっと対価を得るべきだと思いますよ。
「時代が悪かったとか、業界が悪かったとか、あと10年違えば状況も違っていたというのは分かっていますけど、そんなことを言ってもしょうがない。だからこそこういう新しいモチベーションがあるとも言えます。格闘技そのものは、一生やめられないと思うので、僕は。一生強くなり続けたいと思っているんです。だから、たぶん止められないと思います」
——格闘技と生きていくと。
「競技者としてMMAをやっている。それが一番だった。そのなかで、例えば、柔術にチャレンジしたい気持ちもあります。パンクラスのチャンピオンとして柔術大会に出たら……青帯で勝てば文句を言われるだろうし、紫で出て負けたら、あいつ負けたよって叩かれるかもしれない(苦笑)。いまのモダン柔術のなか青帯で出たからって優勝できるとも思えないですけど、そういう動きや考えをMMAにもっと採り入れて、後進に伝えたいという思いもあります」
——ベンソン・ヘンダーソンも普通に柔術大会に出場して、勝ったり負けたりしています。別の競技ですが、格闘技として同じだと考えられることが、豊かさじゃないでしょうか。
「すぐ飽きちゃうので、僕(笑)。柔道や柔術とか、いろいろ戻れるものはずっと長続きするんです。でも、SNSとかを見ていると、『また試合を見たい』とか書いてくれている人たちがいると、また見せたいっていう思いもあります」
——あえて聞きますが、4年越しだった堀口恭司戦以外に、やり残した戦いたい相手などいますか。
「いないです。誰ともやり残してないし、やり尽くしました(笑)。ただ、ひとつ少し心残りがあるとしたら……、もしいま止めたら、パンクラスが最後じゃないんだな、という気持ちはあります」
——デカゴンのなかで……。
「勝とうが負けようが、ずっと注目されなかった。それがパンクラスで花開いたというか、一緒に育ててもらったという思いがあります。だから、最後がパンクラスじゃなかったら、悔いが残るかなとは思います」
——分かりました。まずはゆっくりと身体を休めてください。どんな形であれ、石渡選手の今後に注目しています。まだダメージが抜けないなか、今日は長時間にわたり、お話を聞かせていただき、ありがとうございました。
「ありがとうございました」
【取材を終えて】
インタビューは1月某日、「OTOKOGI」練習が行われている駅近くの喫茶店で収録された。ドクターから激しい動きを止められている石渡自身は練習に参加しないものの、この場所に足を運んだという。
ワンデートーナメントは、その苛酷さゆえにドラマが生まれやすく、主催者も我々メディアも物語を見い出し易い。よって、地上波等の放送機会を得たプロモーションは、そのチャンスを逃すまいと必死の思いのなかで、様々なカードのひとつとしてワンデートーナメントというジョーカーを使う。いつの世も負担を背負うファイターは、その代償と対価を天秤にかけるしかない。
しかし、今回のバンタム級GPの日本人選手たちは、それ以上の使命を持って、戦いに臨んでいた。インタビューで決勝の2人に、比較的試合の動きを中心に細かく聞いていったのは、「日本でも格闘技をスポーツとしてとらえてほしい」という両者の想いを汲んでのものだった。
言うまでもなく格闘技に限らず、スポーツは心技体、フィジカルもテクニックもハートもそれぞれが連動している。その選択や動きのなかに、様々な物語も含まれている。また、今回インタビューに登場した選手以外にも、日々の鍛練をこなし、タフな試合を越えたファイターにはそれぞれに物語がある。そこにどんな光を当てるのかは、伝える側の仕事となる。
そして、格闘技は直接、対人でフルコンタクトし、コントロールするという人類五千年の歴史の集積によって、いまがある。その豊潤な世界を探求し続けたのが、『ゴング格闘技』という格闘技専門誌の一面だった。
今回のロングインタビュー全編公開の再収録は『ゴング格闘技』本誌と、『ゴング格闘技ベストセレクション 1986-2017』のPRを兼ねての企画となる。今回のインタビュー同様、『ゴング格闘技ベストセレクション 1986-2017』もぜひ手に取ってていただければ幸いだ。格闘技の面白さ・奥深さを伝え続けることで、格闘技にかかわる人たちの人生が様々な面で豊かなものになることを願って──。(『ゴング格闘技』編集長・松山 郷)