北尾がオクタゴンに足を踏み入れた唯一の試合。独特の構えをとる北尾
1986年10月に創刊され、30年以上の歴史を誇る格闘技雑誌『ゴング格闘技』が、秘蔵写真と共に過去5月にあった歴史的な試合や様々な出来事を振り返る。18回目は1996年5月17日、米国ミシガン州デトロイトで開催された『UFC 9』にあの元横綱・北尾光司(武輝道場)が参戦した一戦。
第60代横綱・北尾光司がUFCに初参戦した。北尾は1987年12月に大相撲を廃業。その後はスポーツ冒険家を経て1990年2月にプロレスデビュー。紆余曲折あり、1996年4月のユニバーサル・バーリトゥードに参戦してバーリトゥード(現在のMMAの元となったブラジルの試合形式)に初挑戦した。
しかし、その試合ではペドロ・オタービオ(ブラジル)をテイクダウンして抑え込むも、最後はバックを奪われて1R5分49秒(試合は10分3Rで行われた)TKO負け。すでに決まっていたUFC参戦に暗雲が立ち込めた。
当時のUFCは選手名に必ずバックボーンが付記されており、試合コスチュームも自由で異種格闘技戦色を強く打ち出していた。日本の大相撲出身、しかも横綱というのは当然大きな話題となっていた。
今大会前には“事件”が起こっていた。当時、ベアナックル(素手の拳)による顔面攻撃が正当化されるため、大会開催の度にその暴力性を非難する開催地の地元政府と「開催阻止か、決行か?」を巡る法廷論争を繰り広げてきたUFC(当時の主催会社はSEG)。
今回もその例にもれず、試合当日まで地元検察局の圧力に直面し、双方の妥協案により開催中止は寸前のところで免れたものの、そのしわ寄せが試合に影響して曖昧かつ不可解な裁定や処置をもたらす結果となったのである。
UFCに何が起こったのか。それはミシガン州検察局長とウェイン郡(デトロイト市が位置する郡)の検事は「UFCは1896年に制定された賞金稼ぎのベアナックルファイトの違法性に該当するもの」と主張。デトロイトの連邦裁判所へ大会の開催を中止するように要請したのだ。
だが、4月25日に同裁判所から下された裁定は「過去のUFCのビデオテープを検証した結果、単なる格闘技の一形態であることが確認された。同大会は違法とは思われない」というものだった。この裁定はUFC反対陣営に加わったデトロイト市長の熱弁をもってしても変わらず、ついに検察側は試合前日にオハイオ州シンシナティの連邦控訴裁判所へ提訴。
それでも結局、同裁判所はこの件を前出のウェイン郡の控訴裁判所へ委ね、なんと試合当日の朝の法廷に決定が持ち越された。地元検察局有利の裁定が下されることが懸念されたが、同法廷は素手の拳による顔面パンチと頭突き(当時のUFCでは有効)を禁止する条件で、UFCの開催を許可。何とか予定通り大会は開催されることになった。
しかし、試合当日になってのルール変更という異常事態。SEGは十分に対応することが出来ず、新たに反則扱いとなった攻撃を出した選手に即座の警告をしばしばためらってしまった。もちろん選手も急なルール変更に対応することが出来ず、試合は“やったもん勝ち”の様相を呈してしまった。また、安全管理に気を配るがゆえにたびたび試合を中断して出血した選手に対してのドクターチェックが普段よりも多く見られたのである。
今回の新ルールの犠牲者となってしまったのが、皮肉にも北尾だった。試合開始直後に受けた“反則”のベアナックル顔面パンチで鼻から出血、マーク・ホール(アメリカ)をテイクダウンして上になるもドクターチェックが入り、そのままTKO負けとなってしまったのだ。タイムは1Rわずか40秒だった(なお、試合時間は12分で延長3分、無差別級)。
試合後、北尾は「鼻血くらいで止めないでほしい(鼻は骨折していた)。試合はまだ十分に続けられたし、もう一歩で腕を極めることができたのに…(今後は)出る出ない以前に、ルールを一度決めたならばその取り締まりをしっかりやってもらわないと困る」と怒りを露わにした。北尾のUFC参戦はこの一度きりとなった。