パンチのダメージを負い、ヒジでカットもされた立嶋(右)だが反撃を開始
1986年10月に創刊され、30年以上の歴史を誇る格闘技雑誌『ゴング格闘技』が、秘蔵写真と共に過去4月にあった歴史的な試合や出来事を振り返る。18回目は当時全日本キックボクシング連盟のエースとしてキックボクシングの人気を回復させ、カリスマ的な人気を誇った立嶋篤史(習志野ジム)が“オランダ軽量級最強”と言われていたマイケル・リューファットを迎え撃った一戦。
当時、立嶋の人気は絶大だった。出場する大会は前売り券でソールドアウト、格闘技雑誌の表紙を何度も飾り、NHKを始めとする地上波テレビ番組でも取り上げられた。どん底にあったキックボクシングの人気を回復させた救世主だったのである。
日本人もしくはタイ人との試合が多かった立嶋が、ついに“格闘技王国”と呼ばれていたオランダからの死角を迎え撃つことになったのが1994年4月23日の後楽園ホール大会。相手はマイケル・リューファットで、当時オランダ軽量級最強の男と呼ばれ、ムエタイの本場タイでも活躍していた選手だ。
1R終了後、場内からは歓声が起こった。立嶋の楽勝ムードを感じ取ったからである。右ボディ、ワンツーと予想通りパンチで攻めてくるサウスポーのリューファットに、立嶋の重い右ロー、左内股への左ローが面白いように当たったのだ。終盤にはローを嫌ったリューファットが早くも蹴り足をつかみにきた。
2Rも同様の展開。得意のショートパンチ、首相撲にいこうとするリューファットに、立嶋の左右ロー、左ミドルがバンバンと当たる。“これは勝てるぞ”と誰もが思った直後、格闘技は何が起こるか分からないとの言葉が現実のものとなった。リューファットの右フックが、2R終了のゴングと全く同時に立嶋のアゴを打ち抜き、立嶋がストンッと落ちるように膝を着いたのである。倒れたのはゴング後だったためダウンはとられなかったが、リューファットが自軍コーナーへ悠々と戻ったのに対し、立嶋はその体勢のまま動かずセコンドに抱えられてコーナーへ戻った。沸きに沸いていた場内が、一瞬で静まり返った。
そのダメージが抜けない3R、立嶋はヒジで左目上を切られてしまう。ドクターチェックで傷は浅いと判断されたが、再び接近戦に持ち込んだリューファットに今度は左こめかみの上をカットされてしまった。2度目のドクターチェック。ドクターもレフェリーも険しい表情となり、立嶋TKO負けが濃厚となった。場内は騒然。
だが「やらせてくれよ!」という立嶋の涙の訴えが通じたのか、試合は続行に。立嶋は歯を食いしばり、鬼神の表情で猛反撃を開始した。4R、立嶋は上体を左右に振ってのパンチ、右ロー。リューファットも左ストレートで攻めるが立嶋の右ローが確実に効いているため動きが鈍い。立嶋はコーナーへ詰めてのバックスピンエルボーまで繰り出し、オランダ王者を逆に追い詰めていった。
最終5Rは一進一退の攻防。立嶋が左ローから右ストレート、左ボディ、左ミドルと攻めればリューファットは右ヒジ、左ミドル、右アッパーで一歩も退かない。リューファットが立嶋をロープ際まで追い詰めてパンチとヒジの集中砲火を浴びせたが、立嶋は右ローで脱出。白熱の攻防はフルラウンド続いた。
判定は49-48×2、49-49の2-0で立嶋が辛勝。勝利が告げられると立嶋は何度もリューファットに礼を言い、その手を上げようとする。リューファットは立嶋の手を上げようとし、死闘を演じた両雄は拳を合わせて同時に両手を高々と上げた。そして、場内には「タテシマ」コールが爆発。立嶋も両拳を突き上げてそれに応えた。
立嶋はこの年、全日本キックと1200万円の年棒契約をして話題となっていたが、「今日の試合だけで1200万円もらわないと、この先キツいな。僕の選手生命は確実に縮まりましたからね。こんなにボロボロになったのは初めてですよ。勝った時は身体が痛くても嬉しいから気持ちいいけれど、今日は気持ち悪い。頭がグラングランする」と語った。それほどの激闘だった。