ダウンしてすぐ不用意に立ち上がったアンディに、スミスが右ストレートを見舞った
1986年10月に創刊され、30年以上の歴史を誇る格闘技雑誌『ゴング格闘技』が、秘蔵写真と共に過去4月にあった歴史的な試合や出来事を振り返る。6回目は1994年4月30日に東京・国立代々木競技場第一体育館にて開催された第2回の『K-1 GRAND PRIX’93~10万ドル争奪格闘技世界最強トーナメント~』1回戦で行われたアンディ・フグvsパトリック・スミス戦。
アンディのお株を奪うカカト落としの奇襲をかけたスミス
アンディ・フグ(スイス)は1987年に開催された極真会館の第4回世界大会で外国人選手として初の決勝戦進出を果たし、決勝で松井章圭に敗れるも外国人選手最高位の準優勝を果たして大きな注目を浴びた。1991年の第5回世界大会では4回戦で敗退し、その後、極真会館を退館して正道会館へ移籍。
当初は空手ルールで試合を行っていたが、1993年11月に後楽園ホールで行われた『ANDY'S GLOVE』でK-1ルールデビュー。村上竜司に1RでTKO勝ちを収めると、同年12月にはエリック・アルバートに2RでKO勝ち。3戦目にして初代K-1グランプリ覇者ブランコ・シカティック(クロアチア)との対戦が組まれたが、大方の予想を覆して3分5Rを優勢に戦い抜き、判定で勝利を収めた。
この勝利によって一躍第2回K-1グランプリの優勝候補に躍り出たが、まさかの惨劇がその1回戦で待ち受けていた。
1回戦の相手は、1994年3月に開催された『UFC 2』のトーナメントで準優勝(優勝はホイス・グレイシー)し、その名をあげていた同じく空手出身のパトリック・スミス(アメリカ)だった。
「アンディ・フグ? 知らないね」幸か不幸か、スミスはアンディを全く知らなかったらしい。「ボクシングは8回戦さ。10日前の19日にも試合をしたよ」と、パンチテクニックに関しては少なくともアンディよりもレベルが上だったことが試合後に判明したが、アンディ戦で見せた一連のパンチは決して技術に裏打ちされたものではなく、パワーと本能のままに繰り出される、いわば“ケンカパンチ”だった。
運命の“19秒”を振り返ってみよう。まずスミスがゴングと同時に左カカト落とし。カカト落としの本家にいきなりカカト落としを仕掛けるところは大胆不敵だ。難なくディフェンスするアンディだが、スミスは間髪入れずに右フックを追撃。これがアンディのアゴを直撃し、アンディは思わずマットに膝をついてしまう。すぐに立ち上がったアンディだが、レフェリーはダウンを宣告した。
再開後、スミスは左前蹴りでアンディのガードを下げ、左右フックを連打。またもアンディの膝が折れたところで主審が割って入ったが、それよりも早くアンディが体勢を立て直したために、スミスの右ストレートを不用意に喰らってもんどりうって後方に吹き飛んだ。この瞬間、アンディの初挑戦でK-1GPを制覇するという野望は打ち砕かれてしまった。
すぐに立ち上がったアンディだが、トーナメントルールの2ノックダウン制のためKO負け。
第2回UFC準優勝で大いに株を上げたスミスが、誰もが予想しなかったアンディのKOシーンをいとも簡単に演出してしまったのである。その後の準決勝でピーター・アーツ(オランダ)に敗れたとはいえ、アンディをKOした男として自身の商品価値を大いにあげた。
「彼(スミス)はあまり試合をしたことがないタイプの選手。彼の良いところが出たのだろう。今後のことはゆっくり休んでから考えたい」と試合後のアンディ。
間合いを最も重要視するアンディにとって、スミスのようなファイタータイプはやはり苦手なタイプだったのだろうが、“優勝”の2文字しか頭にないアンディの眼中に、スミスが要注意マークで入っていたのかというと疑問が残る。順調すぎるほど順調なペースでプロ転向後の道を歩んできたアンディにとって初の挫折となった一戦だった。
この約5カ月後となる9月18日、アンディはスミスとのダイレクトリマッチに臨み1R56秒、ヒザ蹴りによるKO勝ち。『K-1 REVENGE』の大会名通り、リベンジを果たして見せた。その後、マイク・ベルナルドに2連敗、アーネスト・ホーストにも敗れたアンディだが、1996年5月の第4回K-1グランプリでホースト、ベルナルドにリベンジを果たし、K-1の頂点に立った。このスミス戦の敗戦が大きな糧になったのであろう。