パーキンソン病と闘いながら日々、道場で柔術を行う
そのヒクソンが、パーキンソン病を告白したのは2023年のこと。姪のキーラ・グレイシーのポッドキャストに出演し、2年前からパーキンソン病と診断されていることを明かしていた。
発症から4年。手が震え、時折、ヒザが跳ね上がるなど、しばしば全身を振動が走る。
「最初は何が起こるのか、病気の程度が分からないから、少し途方に暮れた。しかし、私はそれを『新たな敵』と捉えた。なぜなら、私にとって諦めることは選択肢にないからだ。もし私が17歳でパーキンソン病の宣告を受けたら、大きな衝撃を受けていたかも知れない。人生経験が浅く、自分というものが分かっていないから。でも今日まで人生でさまざまなことをしてきた。自分が何者なのか分かっている。パーキンソン病を自分に順応させるつもりだよ。ハッピーな知らせではないけれど、可能な限り快適な状態にしていく」(ヒクソン)
ヒクソンが毎日欠かさず行っていることの一つは、道場に行くことだ。
山田代表は、パーキンソン病を抱えたヒクソンが、不思議と柔術の指導のときに、その症状が出ていないことに気づいた。それは、同じ病を患う腕利きのガラス職人が、ガラスを切るときは、決して腕がブレない姿を想起させたという。
10代でズールーと素手のヴァーリトゥードを戦ったとき、「私の心は私を裏切った」
ヒクソンは25年夏、地元メディアに、闘病での心の持ちようについて語っている。
「これはパーキンソン病から学んだことだ。否定したり、自分に何か問題があると感じようとしているが、私には何の問題もない。それは人生のプロセスであり、私はそれを受け入れられる。そして、もし私がまだ人々を鼓舞でき、人々を助けることができ、知識を提供し、支援できるなら、生きていることが素晴らしい日だと感じる。だから、感謝や希望を感じないことは難しい。妻と私はそのマインドセットを愛し、決して諦めないことを大切にしている」
そのマインドセットを学んだ最初は、1980年4月25日にレイ・ズールーと素手のヴァーリトゥードを戦ったときだという。
「19歳の時、父が年配の人と話しているのを見た。私は父のために戦うつもりだった。その人は彼らの友人であり、その男が私の父をブラジルの首都に招待したんだ。プロのズールーの試合を観戦するためだった。その選手は30歳で、200ポンド(90kg)以上で、125戦無敗だった。そして彼は、自分を助けてくれる人を探していた。
私はその会話を聞いていた。父が『ここにはプロはいないが、息子ならできる』と言った。しかしその男は『息子を連れてくるな。彼は19歳で若すぎる。この男は怪物だ』と言った。父は私を巻き込んで試合を見に行かせた。結局、その日から1カ月後に試合が設定され、ブラジルに行ってズールと戦った。
1R終了時、私は非常に疲れていた。父に『止めたい』と言った。『もう戻りたくない。痛くないし大丈夫だけど、ただ疲れてる』と。父と議論し、行きたくないと主張した。兄が氷の袋を持ってきてくれた。ベルが鳴り、彼らは私をリングに押し込み、『2R目で3分間戦えば、相手を絞め落とすチャンスだ』と言った。それが私にとっての恐怖だった。
もし一人でいたなら、私はパニックになっていた。でも、自分が予想以上に多くのものを持っていることに気づいた。勝つことはできたが、私の心は私を裏切った。その夜は勝利だったのに、私はそれを調整する必要があると感じ、人生にこの精神的な導きを組み込むことがいかに重要か理解し始めた。“死さえも信頼せよ、しかし決して諦めるな”と。だからこの戦い後、自分に『死を選ぶ』と誓った。あのとき、時間前に諦めることを自分に強いた。次に戦う時は、兄弟か父が私を救いに来ない限り、私は死ぬまで諦めない」




