MMA
インタビュー

【Bloodsport】ジョシュ・バーネットが語る、プロレスはどこから来たのか「世界に普遍的なものがあるとするならば、それは暴力であり、格闘であり、闘争なのだ」=6月22日(土)両国国技館

2024/04/18 10:04
 PRIDE、UFCで活躍したジョシュ・バーネットが主宰するプロレスイベント『Bloodsport』の日本大会「ブラッドスポーツ武士道」が6月22日(土)、両国国技館で開催される。  現在ではプロレスと格闘技競技は別だが、そのルーツを知ることは、格闘技興行の成り立ちを知ることにもなる。ジョシュに聞いた、プロレスとはどこから来て、どこへ行くのか──。 「暴力」がまるで自分の世界の地続きに存在していないかのようにしている ──競技としての格闘技とプロレスリングはいつしか分かれました。「リアルファイト」というのは、ある種の矛盾を含んだ、実現不可能なものを実現させようとする試みのなかにあると自分は考えます。そんななかであなたが新たにプロレスイベントとして『Bloodsport』(6月22日・両国国技館)を起ち上げるそうですが、格闘技専門誌としてはジョシュに、格闘技とプロレスの関係を思考するうえで、プロレスがどこから生まれたのか、をうかがいたいと思います。 「うむ、それはコンセプトの意味で聞いているのかい? あるいは物理的条件で、つまりいつどこで誰が始めたことかを聞いている? というのも、技術的な意味で言えばプロレスリングは、常に存在してきたものだ。つまり“暴力”という要素があらゆる人類の存在にとって基本的な側面のひとつであるから。暴力それ自体はね」 ──まずはコンセプトから。というのもそれは格闘技興行のルーツのひとつでもあると考えるからです。 「なるほど。我々が生息している世界というのは、暴力を媒介、あるいは代替可能な世界なんだ。他の……つまり暴力というのは、我々が権威を与えうる、外側にある存在によって行われるものなのだが、世界のあらゆる存在間の相互作用の中に、暴力がいつでも、あらゆる繋がりの中に潜在的に存在するという事実は変わらない。  我々──俺を1人称とする西洋の我々だ──や、西洋と東洋の隣接する、日本のような世界は共存して生きることができるにもかかわらず、暴力が抽象的な意味でしか存在しないかのように振る舞う社会を構築する方法を見つけた。  人は“暴力性を好まないかのように振る舞う”ために、何か、別のところで起きている他人事(ひとごと)で、ニュースで起きていることのようにしか意識していなくて、まるで自分の世界の地続きに存在していないかのようにしてるということだ。自分にも、あなたにも、ほかの誰にとっても、いつ、どこで起きているかどうかさえも分からないって。しかしながら起きていることは事実、そこで起きているんだ」 ──その通りで「問答無用」の世界は、いまも我々の生活の地続きにある。 「もし自分が(暴力的な)相手に『やめて/やらないで』と(言葉で)指示するとする。そうしたら相手は、『いや、自分のしたいようにするよ』と返事するだろう。では他にどんな手段がある? 代理人を立てるわけだよね。暴力が発動したときに、(日本語で)“コウバン(交番)”は、その時どうする? そして公的権力はそれをどう扱うのだ。彼らは一体いつやってくるのだろう。いつ何が起こり、誰がそれを決めるんだろう。結局自分が決断を下すのか? 『よし、お前のケツを蹴り上げてやるぜ』『いやいや、そんなことはできないぞ、しちゃいけない、違法行為だ。交番を呼ぶぞ』『いいだろう。じゃあ俺がお前をやっちまうまでにそいつらが到着するのにどれくらいかかるんだ?』  ……もっと具体例で言うなら、たとえば秋葉原で誰かが突然トラックで暴走して人をはねまくったあとに降りてきてナイフを振り回してきたらどうする?『おい、誰も刺すなよ、交番が来るまでは』って? そんなわけがないだろう。  というような話とプロレスがどう関わるかというと、あらゆる行為において、危険は伴う、ということなのだ。つまり。ファイティング=“リアル・ファイト”においては、命に関わる痛みを受けたり、傷を負ったり、ひいては死ぬという結果を可能性として潜在的に伴っているのだ」 [nextpage] プロレスのコンセプトが生まれたのは── ──カントとカミュの問答のようですね。しかし人もまた動物である。 「我々はいま社会を生きているが、人間は自然から生まれ育った動物であることには変わりがない。しかし、傷つけられるなんてことは決して許されないことというのがコアなところに備わっている。  自分が格闘技を指導する時に言うのは、あらゆる場面で、顔や首、喉元周辺に何かをされるとみんなすぐパニックになるということ。すごく不快なんだ。だからチョークをされても落ち着いてディフェンスできるように練習しなくてはならないし、タップアウトすることも覚えなくてはいけないし、ネックロックに対して冷静さを持って対処しなくてはいけない。パンチが飛んできても目を瞑らないように練習しなくてはいけない。自然界において人間の自然な動作、反応というのは、今言ったような部位であったり、頚椎だとか脊髄に関わる部分が、どんな場面でもダメージを負わないように、窒息しないようにいたいのだ。なぜなら我々は今も昔も自然界の生物であることは同じだからだ。  とにかく目を負傷したらマズいんだ、狩りは目を使うから。捕食して生きているから。我々は、目を使って視界の中で狩猟をするものだ。おおむね音で聞くわけではなく目を使っている。そうやって移動するし、そうやって世界と関わっていて、物だったり、動きを追跡したりしている。  もう1点、もし脊髄(背骨)に何かあったら足腰が使えなくなるし、手や腕も自由に動かせなくなり、ひいては死に至る。  だからなんとしてもこの部分は守らなくてはならないし、目や顔など重要な部位の周辺はすべて守らなくてはならない。だから、我々の自然な本能としては自分の身を守るために仕組みができている。我々(ファイター)はそういった本能に逆らって、落ち着いて危機的な状況に対処して、より効果的に戦うことができるようにトレーニングをする。  自然界にいるのであれば、怪我をしたり、死ぬかもしれない状況だったり自分にはままならないような状況で、落ち着いて対処をするなどと考えることには意味がない。人間は生まれながらにして、自分にとって最も大切なものに対して反応するメカニズムが備わっているのだ。  それで、今は、さっきも話した通り、我々は新たに、暴力を使わずに、外部のものを利用しようと合意したりということで、こういう状況や環境に対しての順応力を新たに獲得できる。  我々は、自然界においては本能的に被(こうむ)りたくないと思うことに囲まれていても落ち着いて、冷静でいられるように教えることもできる。しかしその分、戦いには大きな賭けを伴う。  だから、もし、感情的だったりスピリチュアルな内容を、怪我であったり、もっと悪い、最悪は死というものを伴うリスクなく届けたいのであれば、それを和らげることや、重大な可能性を減らすということをする必要がある──そこにプロレスのコンセプトが生まれたのだと思う。  その非常にシンプルなアイデアから生まれたものが、だんだん時間が経つことで、プロレス的な側面としてどんどん成長し始め、試合する側や試合を見ている視聴者の精神や感情的なところで、より衝撃的で力強い影響を与えるようになる。つまり飛び降りようとしたり、頭に画鋲を打ったりするようになり、試合そのものをどんどん増やし続け、観客の感情をどんどん引き出していった。  だから、ほとんど本能的な直感に反することになるし、怪我や死の可能性を減らすことは、それを増やすことに繋がる。勝者と敗者という考え方は、今も変わらないから、感情的なコンテンツとして、誰かが勝ったり負けたり、やり返したり、勝利のために再起したり打ち負かす姿を見せることができるというわけだ」 [nextpage] 観客の感情を掴むことができなければ、観客からお金をもらうことはできない ──ムエタイのようにボディキャピタルを損ねないように戦うものであったものが、そうでなくなった。となると、プロレスにおいて観客がファイトに影響しているということですか。 「まあ、ある意味ではそうなのだが、観客のためにやるということは決してないということだ。こちらがやることに対して観客が来るという関係性であって、観客自体は自分が求めているものが何かは分からない。あれがいい、これがみたい、こうしてほしい……、もしそういうものに応じてやったりしたら、観客は買ってくれない。それがあって彼らにクリエイターになる能力があるなら、自分で生み出せばいいだけだからだ。あくまでも観客は観客であり、驚かされる側だ。彼らが望むのは我々につくりだす側の取り組みをしてもらって、自分ではやり方が分からない感覚を味あわせてもらうことであって、こちらが観客たちには全く予測できないような経験を与えることなんだ。  こう考えてみよう。マジシャンは客席に行って『さあ、どんなマジックをやってほしい? どのトリックが見たいんだ? このトリックでどんな体験をしたいんだ?』なんて聞いてきたりはしない。その要望に応じて『さあどうぞ』などとはしないはずだ。マジシャンはマジックを生み出し、そのマジックを使って、ショーを作り上げるのだ。トリックがあってそれによって得られる体験に観客は引き込まれていく。  そして忘れてはならないのは、それがボクシングであったり(日本語で)“総合格闘技”、あるいはキックボクシングであれ、それがプロレス以外の格闘技であったとて、観客のために戦うのであれば、それはエンターテインメントだ。純粋に戦うだけだとは言えない。  そう、単に戦う、それは目的として名誉や復讐、正義に反するものといった問題のために戦うことに駆り出された人間は、観客など必要としない。ただやるだけだ。誰かに知られようが、見られようが気にしない。戦う理由そのものが、目撃者や誰かの娯楽、そういったものの欠如を伴わないところから派生したものなのだ」 ──たしかに、観客の前で見せる点においては同じです。我々が動物で、血なまぐさい世界で生きていることを定期的に思い起こさせる──プロレスのコンセプトは、いつ頃、どこで生まれたのでしょうか。 「競技だったりリアルファイトにおける、エモーショナルなコンテンツを提供したいと思った人たちによって始まったということだろう。まあ、実際もともとプロレスはリアルファイトであったし、MMAやグラップリングとの違いは何もなかった。しかしながらここで指すプロレスは現代、あるいはポストモダンのタームで考えるプロレスだが、それは観客もだし、試合それ自体の感情的な部分をより昂らせる方法を利用したり見つけるところにあって、今やプロレスには、お金のために観客を操作しようとするようなきらいもあるけれど、どうあれ観客の感情を掴むことができなければ、観客からお金をもらうことはできないわけだ」 (C)Bloodsport ──かつてそれは格闘家たちがやっていた? 「もともとは。ただ、あるところでそれは収まった。それはゴールドダスト・トリオのトゥーツ・モント(※1920年代初頭から中期にかけてレスリング業界に革命を起こした米国のプロレスラー・プロモーター)とかそういう奴ら、ユーコンとかのように、観客を騙して金を巻き上げようとして不正な賭けをさせたりしていて、“どうだどうだ”と挑戦を煽って、“フッカー”とか“リンガー”がカネを戻したりっていうことをしていた。他にも、そういうフッカー、リンガーを使って、本当は強い方の選手を『あいつはあんまり良くないな』なんて言って騙しては打ち負かすというようなことをしていた。それ以外については、観客を操作するような感じで片方を信じ込ませたりして、賭けを混乱させるようなことをやったりもしていた。公開計量や公開ワークアウトをやるのもそのためで、競馬の前にパドックで馬を連れ回して見せるようなものと同じだ。『おお、あいつはマジで強そうだな、あいつに賭けよう』とか印象操作をするところから始まっていた。20世紀初頭の話だ。  とはいえ、ただ人を騙して金を巻き上げようとしているだけだと考えるような皮肉な話ではなくて、さっきも言ったように、まず観客の感情に影響を与えられなければ、観客からお金を払ってもらうことはできない。広告は必ずしも事実や数字を伝えるだけのものではない。ある商品に対して、ある種の感情を抱かせることで、その商品を買いたいと思うほどの良い気分にさせることだろう? プロレスリングは当時は、見ている人の感情や信念を操作して、そう思わせようとしていたのだ。アスリートへの信頼を作り上げ、その信頼を操作する。この場合、あるいはそうでなければ、こう言えるかもしれない」 [nextpage] 「神話」的なものを作り出すために『Blood Sports』はある ──ファイトがほかのスポーツと異なるとしたら、かつてその大きな部分を担っていたボクシングのように、人が人を殴り、相手に直接的なダメージを与えることで強さを競う、「文明のタブーと思われていることを犯す」点にあるのでしょうか。 「ここでまた本当に自分としては何か浮かび上がってくるものがある。ここで君が言わんとしていることとは関係ないかもしれないが、『ボクシングが文明のタブーを犯している』という点についてだ。思うに文明が存在しうるのは、暴力がその土台を築いているからなのだ。そして、そこに非暴力的な人が入ってきて、暴力的な部分を蹴散らし、暴力的な部分を支配しようとするのだ。非暴力の側は、暴力のある世界では自分たちが牛耳っていけないからこそ、チームを組み徒党を組んで、暴力排除のシステムを構築する方法を見つけ出す。彼らは非暴力的な人々、あるいは暴力で成功することができない人々なのだ。そういう人たちがそれを文明におけるタブーとする。したがって、戦えない者たちが文明を担い、戦える者たちは文明を支配するために使役されることで、文明は平和だとされるのだ」 ──それはその、作られたシステムにおいてタブーとされているということですね。だからこそ、そのシステムの外にいようとするものに惹かれるということでしょうか。 「いや、それは別の考えなのだ。暴力と文明と平和について、そしてそれらがいかに対立的であり、またいかに相乗的であるかについて、そしてそれらがいかに互いに重なり合わなければならないかについて、もうこれだけで壮大な議論だな。  官僚は王国を作るために戦士を必要とする。しかし、その戦力によって王国を失うかもしれないので、彼らは戦士をどこにも置きたがらない。政治家たち、つまり戦えない者たちというのは、土地を開拓し物を作り建築家が建物や城壁を建てることができるような構造を作り、それを守るための軍隊や武力を持つために戦士を必要としているのだ。その一方でその築き上げた城壁の中央部には、まったく戦えないものたちの金で溢れかえり、戦えるような者が二度とトップに立てないようにするために、あらゆる手を尽くす。そうなると文明なんてものは単なる、ただただ果てしなく長くて、苦々しいゴシップや噂、不平不満の集合体でしかなくなる」 ──「キーボード・ウォリアー」さえも出て来る(苦笑)。 「いや、もっと悪い。やつらは教えてくれないから、税金をいくら払えばいいのか、何のために払えばいいのか、どこに行けばいいのか、誰がどうすればいいのか、どこに駐車すればいいのか、何も教えてくれやしないのだ。国家を構築するのは非常に難しく、複雑なビジネスであり、そのバランスは非常に難しい。文明や国家、政府、都市、その他もろもろを築くようなことというのは。均衡を保たなければならないけれど、それはとても難しいことで、常に傾き続けている。分からないけれど、ある意味、死んでいるのかもしれない」 ──壮大な話で難しいですね……。成り立ちの一部は分かりました。そしてジョシュが届けるプロレスには間違いなく「ファイト」があると。プロレスリングの原点のような試合に近いかもしれないですね。ロープに振ったり、コーナーポストから跳ぶ必要もない。マット上だけで戦う。それはバイオレンスだと。 「すべてのプロレスは同じだ。どれも戦いは同じなのだ。困難、挑戦、問題点、そういったものを乗り越えなければならないのだ。顔に受けたダメージを乗り越え、カットもするかもしれないがそれも乗り越え、対戦相手を乗り越え、怪我を乗り越え、あらゆる苦難を乗り越えなければいけない。苦しみであり辛さであり、それら全てを乗り越えなくてはいけないという点で同じなのだ。そしてその全てを克服するというストーリであり、これはいつだって同じなんだ、戦いにおいて。  新しいストーリーを物語ろうとするつもりなどない、必要ないからだ。このストーリーはタイムレスでありエイジレスであり、国境も、文化的な違いも人の隔たりもない。世界に普遍的なものがあるとするならば、それは、暴力であり、格闘であり、闘争なのだ。誰もが、それはどのようなものかを知っている。しかしながら、それを“俺は自分の知っているやり方で伝えたい”のだ。どうやって? 観客の感情に届くように、我々にしかできない精神によってだ。  そのためには、ギミックを減らし、コスチュームを減らし、照明や爆発を減らし、ロープを使わず、もっと純粋に、もっと生々しくすることだ。そうすれば、アスリートの中にあるもの、リングの中にあるもの、それだけが残る」 (C)Bloodsport ──リングの無いマットだけの会場で、ジョシュvs.鈴木みのるを米国の観客が固唾を飲んで見守っていて驚きました。 「そうだろう。なぜなら典型的なプロレス観戦は、今まで見てきた他のと同じように考え、同じように理解し、同じように感じるだろう。知っているように見えるからだ。『Blood Sports』はそういう類のものじゃない。人に衝撃を与えるようなものでなければならないし、注目されなくてはいけないし、金を払うに値するものでなければいけないし、究極的には見た人から最も強烈な感情を呼び起こし引き出すようなものでなくてはいけない。この場に居合わせているということをいかに感じ取るかが重要なのだ。 『Blood Sports』は、人々が怒りであったりという、何か違う感情を発散させるためではなく、あるいは単に逃避のためでもなく、人々が感情を発散して前に進もうとするためにあるわけでもなくて、何かヒーロー的なものを見て、人々を感動させ、(日本語で)“神話”的なものを作り出すためでもある。そして、その神話性なるものが、人々を単に楽しませるだけでなく、自分自身の考えをより大きく、より高く持てるように駆り立てる、つまり、より見ている対象、こういうイベントに神話的な要素を強く持って思考することで、それが何であるかという点で、物理的な、物質的な事実ではなく、それが何たるかという、神話的なものなのだ。  たとえば、映画は現実のものではない。物語だ。物語を見るとき、その中の何が真実で何が嘘なのか、ということではないだろう? というのが神話性と言っていることで、映画を通して語られていることは何なのか? それこそが重要なのであって、これが何分の映画だったのか? この映画のなかでセットチェンジは何回あったのか? そういうことではないはずだ。最近の人々はIMDB(※Internet Movie Database)の中で迷子になってる。そこにある情報が映画のすべてだとでも思っているのか。知らなくてもいいような情報の羅列ばかり見て、クソみたいに映画を“見た的な”気持ちになる。もし自分にとってしっくりこないところがあるなら、議論すればいいのだ。全部の要素に分解してあることには意味がない」 ──『Bloodsport』の鈴木戦はフロリダのタンパで行われていましたね。 「そう。神様がいた場所だ。ハンガリー系の家系のグレコローマンのレスリング王者たるカール・イスタズ(※カール・ゴッチの本名)については重要じゃない。重要なのは『カール・ゴッチ』のほうだ。人を感動させる要素は、カール・ゴッチがトレーニングした新日本プロレスの人たちからUWFが生み出されたということだ。この文脈においてイスタズはどうだっていいだろう? 我々は、カール・ゴッチを通して神話を見たのだ」 ──そして今回は両国国技館で行われる。決着はKOかレフェリーストップ、関節技等によるタップのみ。それにしてもロープ無しのプロレスというのは、難しそうです。 「みんなにできるものじゃない。自分がプロレスラーとしてアントニオ猪木やビル・ロビンソン、カール・ゴッチに指導を受け、総合格闘家としてはエリック・パーソンやマット・ヒュームに教えられた、ピュアな戦いに立ち戻ったものを見せたい。誰でもできることには価値がない。誰でもプロレスラーになれるわけじゃないんだ。だから、これから発表される出場選手にも注目してほしい」
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