日本でも活躍した格闘家パトリック・スミス(アメリカ)が、2019年6月18日(日本時間19日)午後3時15分、膀胱がんにより死去した。55歳だった。
本誌の取材に弟のジェリー・スミス氏は20日、「パトリックはマーシャルアーツを生き、マーシャルアーツを愛していました」と、兄の思い出を語った。
「パトリックと私たち兄弟は、カンフー、ビリー・ジャック(トム・ローリン)、ブルース・リー、チャック・ノリスらのマーシャルアーツ映画を見て育ちました。そして、すぐにコロラド州のオーロラ市で、パトリックと私と弟のユージンはポイント空手を始めました。たしか、パトリックが8歳か9歳の頃だったと思います。決勝戦でパトリックとユージンが対戦したこともあります。その後、パトリックはよりタフな試合を求めて、サバキ・チャレンジのようなフルコンタクトの試合に挑戦するようになりました。そしてUFC、K-1等での活躍は、皆さんが知っている通りです」と、ジェリー氏はパトリック・スミスがプロファイターになった経緯を語る。
スミスは米国コロラド州デンバー出身。初来日は、1993年10月に開催された正道会館主催の全日本空手道選手権大会で、1回戦で佐竹雅昭に一本負け。その名を馳せるようになったのは1993年11月に地元デンバーで旗揚げされた『UFC』がきっかけで、第1回大会のトーナメント1回戦ではケン・シャムロックにヒールフックで敗れたものの、翌年3月のトーナメントでは決勝に進出してホイス・グレイシーと対戦した。
同年4月にはK-1に参戦し、K-1グランプリの1回戦でアンディ・フグと対戦すると、アンディをわずか19秒でマットに沈める大番狂わせを演じた。K-1グランプリでは準決勝でピーター・アーツに敗れて第3位。同年9月の『K-1 REVENGE』でアンディと再戦してKO負けでリベンジを許したが、その後もK-1に定期参戦。1995年12月には田村潔司と総合格闘技ルールで対戦し、ヒールフックで一本負けするも大きな話題を呼んだ。
コロラド州デンバーに総本部を置く、投げや崩しもある空手・円心会館のSABAKIトーナメントでも活躍。ポイント空手やテコンドー・ハプキドーの動きも採り入れたスミスの打撃は距離が遠く、アンディとの踵落とし合戦、フグトルネードとの交錯は名場面として語り継がれている。
また、ベアナックル(素手)時代のUFCでは、第1回大会こそ足関節に免疫のなかったスミスはケン・シャムロックのヒールフックに敗れたものの、UFC2では遠い間合いからの前蹴りからの飛び込み&頭突き、マウントでのヒジ打ち、さらにギロチンチョークの有効性にいち早く着目し、1日3試合を勝ち抜き、ホイスとの決勝に進んでいる(※決勝はホイスのマウントパンチによりタップ)。
来日が途絶えて以降も活動は続け、キックボクシングは2000年に引退したがMMAには2016年まで出場し、20勝17敗の戦績を残した。スミスの最後の試合は、2016年7月に米国カリフォルニア州サンディエゴで開催された「Gladiator Challenge」。52歳で元Bellatorファイターのショーン・ロフラーと対戦し、1R 0分8秒ハイキックでKO負けしていた。
ジェリー氏は晩年のパトリックについて、「日本の格闘技ファンの皆さん、パトリックは日本での試合を誇りに思い、とても懐かしがっていました」と語っている。現在、ジェリー氏はパトリックの葬儀と追悼式の資金をクラウドファンディングで呼び掛けている。