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【追悼】沢村忠の「天涯飛竜」の流動美はいかなるファイターの追随も許さない――作家・寺内大吉

2021/04/02 16:04
「真空飛びヒザ蹴り」で一世を風靡、“キックの鬼”としても知られる元キックボクシング界のスーパースター・沢村忠が肺がんのため2021年3月26日に死去していた。78歳だった。  追悼の意味を込め『ゴング格闘技』誌1987年4月号に掲載されたコラム「大吉和尚の格闘名勝負再発見」の第1話を公開。大吉和尚=寺内大吉氏は浄土宗の僧侶であり、作家として小説を執筆、TBSのキックボクシング中継では解説を務めていた。なお、表記や文体はオリジナルのまま。 大吉和尚の格闘名勝負再発見-1「見た!真空飛び膝蹴り」  今は懐し浅草公会堂はキック発祥時における決闘場であった。ファンは未だ新格闘技に熱狂する余裕はなく、ことに沢村忠の試合には固唾(かたず)をのんで眼をみはるばかりだった。場内は水を打ったような静けさで、石川アナの甲高い実況音だけが響きかえった。何とも異妖な雰囲気であった。  そんな昭和42年7月28日夜。リング上では沢村vsピサダン戦が闘われていた。ピサダンは手脚が長く、 膝蹴りがキメ手かと思われた。沢村もそれを警戒した接近戦を避けている様子だ。三R、沢村のまわし蹴りでピサダンは二度のダウン。しかし二度目はロープを掴んで立ち上がり、沢村のフィニッシュを“誘う”構えだ。飛びこんでくる相手を長い腕で巻きこんで膝蹴りの逆襲に出るつもりだろう。  沢村は詰め寄ったが、一歩手前でくるり半回転した。丁度ピサダンとロープを背にして並んだ恰好になった。次の瞬間、そのままの角度から横殴りにまわし蹴りを飛ばしていた。沢村の足首がタイ人の顔面に蓋をするように直撃した。ロープ下へ崩れ落ちたピサダンは 立てなかった。  担架で運び出されたピサダン・ ラートカモル。ぼくらは次の堀川諭とバイヨク・ボーコーソー戦が始まったころ、救急車のサイレンが接近して公会堂の真下で停まった気配を聞いた。病院へかつぎこまれたピサダンの傷は「鼻陵陥没」であった。そして二カ月ほどしてリングへ再起したタイ人の鼻にはプラスチックの蓋がかぶされていた。 (写真)垂直に飛び上がる真空飛びヒザ蹴り しかし、当時沢村がキメ手とした大技は真空飛び膝蹴りだった。名古屋金山体育館でおこなわれたタノン・ベチンチャイ戦などはそれを絵画化したような傑作と言える。二Rタノンのパンチ攻撃で二度のダウンを奪われた沢村だが、 二分間の休みで完全に回復、開始ゴングとともに俄然、立体攻撃を仕かけた。まず左まわし蹴りでダウンを与え、立ち上がったところへ飛びまわし蹴りだ。これは命中角度が浅くて、爪先が側頭部をかすめた程度だった。それでもタノンはよろめいて片膝をマットについた。  体勢を立て直そうとしたとき、タノンは天をふり仰いで恐怖の眼をひきつらせた。眼前高く沢村の巨像が“雲上人”のように立ちはだかったからである。  垂直跳躍で八○センチを超すと言われる沢村がタノンの面前で舞い上がり、落下しつつ両膝でタイ人の顔面を挟みつけるようにする。もちろん触れた瞬間に利き膝の左は激しく側頭部を痛撃しているのだった。  スリムな沢村の肌黒い肢体が空間へ舞い上がった姿は、力量感にあふれると言うよりも「天涯飛竜」の流動美の極致であった。ファンを魅了し尽くした。  この真空飛び膝蹴りは、キックがテレビのレギュラー番組となるかどうかを決定させる昭和43年7月3日、東京都体育館でのダイオノイ戦でも鮮やかなフィニッシュシーンを飾った。 (写真)テレビ中継の放送席に勝者・沢村を迎える寺内氏(左)と石川アナ(右)  ダイオノイはパンチに強打を秘めていた。ムエ・タイは国際式を兼ねる選手が多く、かつて世界ジュニア・ウェルターの王座で強打をほしいままにしたセンサク・ムアンスリンもタイ式の王者である。  七千の大観衆を集めたキックの晴れ舞台で、沢村は苦しいスタートだった。二R、まわし蹴りをきめてダウンを奪った沢村が、かさにかかって立ち上がるダイオノイへ攻めこんだが、倒れたのは沢村自身だった。アッパーをもろに喰らったのである。だが四R、両者がロープでもつれ、クリンチを求めてダイオノイが不用意に沢村へ腕をまわしかけたとき、あのカモシカのような身体がするすると垂直に上昇していったのである舞いおりてくる沢村忠。ダイオノイは身をよじらせながらキャンバスへ沈んでいった。  沢村の飛び前蹴りは必殺技だった。  日本武道館、万余の観衆を熱狂させたモンコントーン戦。お互いダウンの応酬は数えきれぬほどであった。あるラウンド終了時、モンコントーンはゴングで救われたが目ざめず、コーナーを飛び出したセコンド二人が長々と伸びた身体を引きずって収容したほどである。  乱打乱撃戦の結着は、沢村の全身がミサイル弾となって空間に大ぶりな弧をえがいて発射された瞬間であった。黒いミサイル弾は獲物をねらって飛翔し、モンコントーンの顎で炸裂した。 (写真)ビール瓶でボディを鍛える沢村 試合のあと、沢村は前蹴りの必殺性についてぼくに語ってくれた。 「足の甲が相手の顎に触れた瞬間に、それを返すんです」「返す?」「足首をひねるんです。そうすると踵がもろにはいります。でもそれは出来ません」「なぜ――」 「踵が顎へはいると頸骨を外ずしてしまいます。死んでしまうからです」  文字どおり“必殺技”だったのである。沢村は、その飛び前蹴りで遂に一度も踵を返すことはなかった。 (写真)沢村とサネガン(右)はいつもドラマティックな戦いを展開した 昭和47年から50年へかけて、つまり沢村の全盛時、幾多の強豪難敵が彼の前に立ちふさがった。タールイ・シーソンポップ、チャイバタン・スワンミサカワン、パナナン・ルークパンチャマなどである。 しかしサネガン・ソーパッシンこそは最大の好敵手だったと言えよう。  サネガンとは六度戦い、沢村の四勝一敗一分に終っているが、どの試合も紙ひとえの迫撃戦であった。沢村がリング狭しと飛鳥のように舞って立体攻撃を仕掛けるが、サネガンはよく耐えた。彼は地に這いつくばるようにして粘り強く攻めこんできた。だから沢村勝利のキメ技は膝蹴りとかヒジ打ちで、派手な大技はくり出せなかった。サネガンが巧みにこれを封じたとも言える。そして、お互いが消耗し尽くして最後は接触戦となって、小刀でトドメを刺す結果に至ったものである。 、沢村忠がリング上で舞ってから、もう二十年以上が過ぎてしまった。遠い昔の絵物語とも言うべきか。  しかし、今日プロレスやキックでしきりと飛び技がくり出されるが、沢村忠を超える者がいないのは、ぼくの贔屓目のせいであるか――。  その力感はともかくとして「天涯飛竜」の流動美だけは、いかなるファイターたちもの追随を許さない、と断言できそうである。
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