2000年5月26日に東京ドームで開催された『コロシアム2000』でのヒクソン・グレイシー(ブラジル)vs船木誠勝(パンクラス)戦から、今日でちょうど20年目となる。この日に船木が自身のYouTubeチャンネルにて、自らヒクソン戦を振り返った。
1998年10月11日の『PRIDE.4』で高田延彦がヒクソンに敗れた時、「これは次、絶対に自分に来るなと」予感したという船木。「必ず来る、その時までに戦う準備をしておこうと決意していました。その1年後、1999年の秋に自分のところに話が来ました。即OKです。ヒクソンと戦えるならギャラもいりません。自分も戦って力を試してみたい。お金じゃなくて自分の身体と気持ちで戦ってみたいと思いました」と、純粋にヒクソンと戦ってみたいと思ったという。
そこからは「この人と戦うためには、こっちも死ぬ覚悟をしないといけないと大きな勘違いをしてしまった。ヒクソン=死というイメージでとらえてしまった。自分は30歳、ヒクソン選手は41歳。そこからずっと死を意識する生活が始まってしまいます」と、殊更“死”というものを意識してしまった。
そのため「入場の時のガウンと日本刀は死を意識した自分なりの心の現れ。トレーニングがうまくいかないと発想が悪くなります。今回の試合、負けるかもしれない。負けるんだったら試合を壊してしまおう。俺はプロレスラーだから入場した時にヒクソンを斬ろうと。日本刀で斬ったらそこで事故になって試合不成立になる。それくらいよくない考えも出てきてしまう、本当に精神状態が不安定でした」と、ヒクソンを斬ってしまおうと考えるほど追い詰められていたと当時を振り返る。
また試合の1週間前には「最後のスパーで、なぜ1週間前にそんなハードなことをやったのか不思議なんですが、ヘッドギアもつけず。須藤元気選手がガードをとった状態で自分が上から殴ったんですね。その時に自分がきつくやってしまったと思います。須藤選手もヤバいと思ってバンバン殴ってきて、自分の目尻に入って切れてしまいました。それでもうダメだ、と。今まで準備してきたものが一気になくなってしまう感覚。何てことしてくれたんだと、そこから先は八つ当たりでした。(須藤の)上になってバカバカ殴って。それを高橋(義生)選手が止めて。最後は泣き崩れてしまいました。すべて水の泡だ、1週間前にこんな結末が待っていたのかと絶望してしまいました」と、怪我をして錯乱状態に陥ったことも。
それでも「もう一回気持ちを作り直して当日を迎えました」船木だったが、セコンドの近藤有己にタオルを渡すか渡さないかを迷ったという。「このタオルを渡してしまったら、近藤のこれからの格闘技人生にも逃げの姿勢が移ってしまうのではないか。タオルを渡すということは自分が負けることを想定している。その時点でダメだなと今は思います。でも試合直前にタオルにこだわっている自分がいた」
そして試合を振り返り、最後の瞬間は「マウントを取られたが、このパンチなら何十発喰らっても大丈夫と思っていた。何分か凌げば次のラウンドでスタンドになれる。ヒクソンの目が腫れているのが見えたので、もう一発ここに当てれば…と。それで、残り時間があと何分かセコンドに聞こうと思いました。セコンドを見た瞬間に首に腕が入ってきた…」と、一瞬の油断が命取りになった。
「物凄く苦しかった。今まで味わったことがない苦しさだった。でもギブアップしたくない。これはやっぱり死ぬのか」と苦しみに耐えているうちに意識を失った。「失神して落ちて、起きてきた時の気持ちは本当に恥ずかしい。穴があったら入りたい気持ちだった」と述懐した。
この船木の独白は1時間以上にもわたり、ヒクソン戦前後の出来事や精神状態などを事細かに振り返っており、興味深い。
そしてその独白は「これは仮のお話なんですけれども、1995年4月20日、日本武道館。バーリトゥード・ジャパン・オープン。ここでヒクソン・グレイシー選手と山本宜久選手が試合をしました。ですけれども、もしもこれが山本選手ではなく前田(日明)さんだったらどうなっていたか。当時、前田さん36歳、ヒクソン選手37歳。年齢的にもばっちりだと思いますね。もしも、この試合で前田さんが勝ったら。もしも前田さんが負けたら。どうなっていたんだろうか。そんな妄想をしてしまいました」との言葉で締めくくられる。