イラン出身でクシュティやレスリングの選手として活躍し、1970年にイランから米国に亡命後、アマチュアレスリングを経て、“アイアンシーク”としてプロレスリングで名を成したホセイン・コシロ・バジリのドキュメンタリー映画『アイアン・シーク』が公開されている。
10月15日(火)には、18時45分からシネマート新宿での上映後、20時20分より鈴木みのるによるトークショーが行われる。
イラン国内でアマチュアレスラーとして活躍したコシロ・バジリは、オリンピック出場経験は無いものの、1970年にイランから米国に亡命後、1971年のAAU(Amateur Athletic Union)選手権でグレコローマンレスリング180.5ポンド級で金メダルを獲得するなど、レスリングの実力者として君臨。レスリング米国代表チームのアシスタント・コーチとして、1972年のミュンヘン五輪、1976年のモントリオール五輪にも参加している。
映画では、1942年にイラン・テヘラン近くの小さな村で生まれたコシロ・バジリ(カズロー・バジーリ)が、レスリング時代を回想する場面も紹介され、バジリの「レスリングが大好きで、レスリングマットと結婚した」という証言とともに、グレコローマンのみならず、フリースタイルレスリングにも取り組むバジリの姿が映し出されている(※オリンピックでは、1896年アテネオリンピック当初の種目は男子グレコローマンのみで、男子フリースタイルは1904年セントルイスオリンピックから加わっている)。
イランの国家主義に繋がっていた国民的スポーツであるアマチュアレスリングでバジリは国内王者に輝き、「2年間トップに君臨」。同地では、モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー(パーレビ国王)一家の警備とボディーガードも務めていたという。
バジリは、メルボルン五輪レスリングフリースタイル87kg級金メダリストで世界選手権2度優勝の“イランの英雄”ゴラムレザ・タクティとも練習を積むことで、実力を上げていった。
しかし、イラン国民のためにインフラや教育の充実を国王に進言するなど人気を得ていたタクティは、1968年1月7日にホテルの部屋で死体で発見され、イラン政府は自殺と認定。
バジリは「誰も信じなかったよ。天才的なスポーツの世界王者が自殺するなんて」と、パフラヴィー政権に対する政治活動のために彼が殺害されたと感じ、「それでイランを出ようと思った。史上最高の王者にひどい仕打ちをするなら、(二番手だった)俺の身にも悪いことが起こる。それでアメリカに来たんだ」と、亡命の理由を語っている。
ペルシア語しか話せなかったバジリは、新しい国でアマチュアレスリングに没頭。1971年にAAU選手権で優勝し、ミネソタでオリンピックチームの監督補佐として働いた後、1948年のロンドン五輪補欠選手だったバーン・ガニアと練習を共にするようになった。それが、プロレスラーとしての始まりだった。
アイアン・シーク、ハッサン・アラブ、1991年の湾岸戦争時にはカーネル・ムスタファを名乗ってWWFに復帰。日本でも新日本、全日本のメジャーに加え、UWFインターナショナルで安生洋二とも対戦しているバジリ。
母国から亡命し、アメリカンドリームを探求しながら、“アメリカ最強の悪役”になった男は“反米ギミック”のなか、いかにヒールからヒーローになったのか。
15日の上映後には、横浜高校時代にレスリングで国体2位となり、パンクラスでも活躍した鈴木みのるが、「ハイブリッドトーク」として、トークイベントを行う予定だ。
また、イベントには日本ブラジリアン柔術連盟も協力しており、中井祐樹会長は、「コシロ・バジリがこのようなバックグラウンドを経て、今日まで来たことを知り、感激しました。自分が生きていることを戦いのなかで総合的に表現する部分では、総合格闘技にも似た部分がある」と語っている。