1986年10月に創刊され、30年以上の歴史を誇る格闘技雑誌『ゴング格闘技』が、秘蔵写真と共に過去5月にあった歴史的な試合や様々な出来事を振り返る。26回目は2000年5月26日、東京ドームで行われた『コロシアム2000』より、魔裟斗(シルバーウルフ)が初めて東京ドームのリングに立った日。
1997年3月に全日本キックボクシング連盟でプロデビューした魔裟斗は、2戦目で小比類巻貴之に敗れるも以後は順調に勝ち続け、1999年3月には第19代全日本ウェルター級王座に就いて順調に団体エースの座を歩んでいた。
しかし、2000年1月の試合前に魔裟斗が出場を拒否し、試合放棄との扱いに。3月14日には魔裟斗が所属していた藤ジムと全日本キックボクシング連盟に退会届を出し、フリーとなった。
この移籍問題のゴタゴタで魔裟斗は「自分のジムもなくて、いつ試合ができるかも分からないこの時期が一番つらかった」と、後に振り返っている。
魔裟斗はまず4月16日にタイへ渡り、サムローンスタジアムでムエタイの試合を行い、ゴーンナパーに2RでTKO勝ち。続けて、5月26日の『コロシアム2000』への出場が決まった。魔裟斗にとって初の東京ドームでの試合となる。
国内では約半年ぶりの復帰戦、そして大舞台での試合に魔裟斗は燃えた。対戦相手は、当時日本で猛威を振るっていたパンチ&ローキックの強打者である外国人キックボクサー、メルチョー・メノー(フィリピン)。魔裟斗よりも一階級下の選手だが、当時は魔裟斗よりもビッグネームだった。ルールは3分5R、ヒジ打ちと首相撲ありのキックボクシングルール。
1R、魔裟斗はジャブで距離を測りながらローとミドル。対するメノーは上下に打ち分けたパンチからローのコンビネーションだ。似たタイプの両者は一進一退の攻防。中盤、魔裟斗の左ヒジ打ちでメノーが右目上をカットするが傷は浅く試合は続行。
2R、魔裟斗はパンチ主体の攻撃に切り替えるが、メノーも打たれれば必ず打ち返す互角の戦いぶり。3Rになると技はメノーの方が多彩だが、勢いでは魔裟斗が上回るようになってきた。魔裟斗がコツコツと蹴っていたローが功を奏し始めたのだ。
そして4R、魔裟斗のローが効いているため単発の蹴りしか出せないメノーは、パンチで攻めようとするが、魔裟斗は速いパンチで押し込んで最後はローにつなげるコンビネーション。
1分過ぎ、このローでメノーがついにダウン。立ち上がったものの、メノーは動きに足がついてこない。その後も魔裟斗はパンチからローのコンビネーションで2度のダウンを追加し、国内復帰戦を勝利で飾った。
試合前のオランダ修業でローキックの蹴り方を直され、自信が出てきたと試合後に話した魔裟斗は「KOで勝てて満足。相手がパンチのある選手だと聞いていたので、最初は距離を取って蹴りで行ったんですけれど、2Rからはこれなら大丈夫だと思っていつも通りにいきました」と試合を振り返る。
そして「フリーだから負けられない危機感はある。今後も、組まれれば誰とでもやる。メジャーになりたい」と意欲を燃やした。
K-1 WORLD MAXが誕生するきっかけとなる『K-1 J・MAX』でのムラッド・サリ戦が行われるのは、これから半年後のことである。