2024年12月14日(土)東京・国立代々木競技場第一体育館で開催された『K-1 WORLD GP 2024 in TOKYO~FINAL~』の一夜明け会見が、15日(日)都内にて行われた。
会見の最後には第2代K-1 WORLD GP女子アトム級王者の菅原美優(K-1ジム三軒茶屋シルバーウルフ/25歳)が登壇。K-1からの卒業と王座返上を発表した。
2024年3月、RISE QUEENアトム級王者・宮﨑小雪(TRY HARD GYM)との女子頂上対決に臨み、延長Rで惜敗。これがK-1での最後の試合となった。
菅原は「あの試合は自分のキックボクシング人生の全てを懸けてやろうと決めていたので悔いはなく。4月にもう返上のお願いをしていたんですけれど、何度も呼んでもらって心境の変化はないかと最後の最後まで、ぎりぎりまで説得してもらって。私も頑固なもので、決めたからにはもう1回とは言えないものがあるのでこういう形にはなりました。楽しいことばかりではなかったですけれど、人としても選手としてK-1のおかげで成長できたので、感謝の気持ちでいっぱいです。
宮田(充=K-1プロデューサー)さんがいなかったら私はこの舞台に来ていなかったので、ただの格闘技が好きな女の子で終わっていたんですけれども、趣味で出たアマチュア大会で宮田さんが声をかけてくれたおかげでこの舞台に来たので、デビュー戦から特集を組んでくれたABEMAさんだったり、たくさんの方によくしてもらってありがとうございました」と、すでに4月には決めていたと挨拶した。
以下、記者との質疑応答。
――K-1ファイターとして一区切り。気になるのは今後のことだが?
「今後の目標としては蹴りを捨ててボクシングの世界に行こうと思っていて。プロではなくてオリンピックが頂点にあるアマチュアボクシングの世界に行こうと思っています」
――ボクシングはK-1時代から取り組んでいたが、本格的にやりだしたのはいつから?
「3月の試合を終えてからです。練習の一環としてパンチには取り組んでいたんですけれど、その中で元から好きだったボクシングがさらに好きになって。元々パンチが得意ではなかったので、自分でボクシングは不可能だと思っていたら、K-1という舞台でやっていく中で蹴りだけに頼ってはいられなくなり、パンチの練習もはじめてのこういう新しい夢が出来たということで。これもK-1をやっていなかったら、ここで試合をしていなかったらつながらなかったと思うので、そういう意味でも感謝しています」
――旦那さんがMMAファイターということでMMAをやるんじゃないかと。柔術の練習をしている姿もSNSに上がっていた。
「全く考えてなかったです(笑)。キックボクシングをやっていて、もっと出来上がってからデビューしたかったなって凄く思うことが多くて。中途半端な状態でデビューしてしまったなと。勢いのまま。もっとアマチュアで経験を積んで自信満々で、初っ端からK-1の頂点を獲りますくらいの覚悟が出来上がってからデビューしたかったと思うことが凄く多くて。
宮田さんに声をかけてもらって、そこでプロという道を知って。そこから思い出つくりじゃないですけれど、それくらいの気持ちでスタートしたものだったので。もしK-1以外でやるのであれば中途半端な状態で出たくないっていうのがあるので。そうなると総合をやるとなると3年は引きこもりたくなっちゃうので。柔術をやってみても、その展開になる前のレスリングだったり、そういうのを考えたらチャレンジしていく過程をみんなに見せるのもいいんですけれど自分の中でそれは嫌なので、総合をやることは考えなかったですね。旦那の応援だけで総合はお腹いっぱいです(笑)」
――ボクシングでの具体的な目標は?
「最初はアマチュアのボクシングで頑張ろうと思っているんですけれど、もっと大きい目標を掲げたらオリンピック目指したい、ロスを目指したいというのがあるんですけれど、階級的に現実的じゃないところがあって。一番下の階級でも5kgくらい足りないので。なのでアマチュアの方が自分はレベルが高いと思っているので、勉強も含めてやりたいのがあり、。国際大会に出たいとか、ジャパンのユニフォームをもらいたいとかそういう夢があって。その先にはプロの道も考えているので。どっちにしろ一番上を目指して。お父さんが昔からのボクシングファンなので、エキサイトマッチを毎週見ていてCDに焼いちゃうくらいの人なので早くプロに行ってお父さんにベルトをかけてあげるのも親孝行かなと思います。プロだったらそれが目標です」
――旦那さんはその決断に対して何と?
「私がボクシング好きなのを知ってるし、家で格闘技の話をするとボクシングの話しかしていないくらいで。テレビをつけてもボクシングしか見ないし。応援してくれているというか、いきいきしているねって。そんな感じです(笑)」
――これからもK-1の会場に来たり、セコンドに就くことはある?
「まだ詳しいことを理解していないのもあるんですけれど、プロのライセンスを取ったらセコンドに就くのは不可能なので、アマの時はどうなんだろうってくらいでいますけれど。ここまで一緒にやってきた後輩たちも仲間もいっぱいいるので、自分に出来ることは少しでも協力できることはしたい。1月に長野翔くんがタイトルマッチ決まっているので、それはもちろんセコンドに就いてサポートしたいと思っています。自分に出来ることは今まで以上に頑張ろうと思っています」
[nextpage]
来年の国体、全日本選手権を目指す
――K-1の中ではやり尽くしたとの想いが強かった?
「やり尽くしたのもそうですし、ボクシングをやりたい欲が出てきたのもありますし。あとは女子キックって人が少ないので。前回はRISEとの対抗戦だったので初めてやった選手だったんですけれど、それ以外は2年前から再戦が多かったりで、つまらないわけじゃないけれど再戦が今後増えていくんだろうなと。それは当初から理解していたことでしたけれども。
去年からは海外の選手とやってみて、みんな普段は組みあり(首相撲など)で試合をしている選手が多いので、そういう選手をK-1に呼んでいただいて、組み無しのルールで勝ってもだんだんスッキリしなくなってしまって。相手は実力を全部発揮できていないんだろうなと考え始めたら、素直に勝ち負けを喜べなくなって。だから自分の課題と向き合っていくような試合をしていたので。だからそういうのも含めて新しいものに挑戦していけたらいいのかなと。タイミングというか、契約も満了するので行く時期かなと思いました」
――松谷綺選手が「逃げるな」とタイトル挑戦をアピールしていたが?
「みんなから『凄い言われようだね』と言われて(笑)。でも手続きはだいぶ前に済んでいたし、タイミングもよくなかったと言えばアレですけれど、正式なオファーをいただいていたわけじゃないので逃げるなと言われてもなっていうのはあります。今後のK-1女子は松谷選手に引っ張っていってもらえたらなって感じです。応援しています」
――アマチュアボクシングの大会にはいつ頃から出ようと考えている?
「来年国体があるみたいなので。私がどこの地域から出るかで予選の日付が変わってくるので。春くらいになるのかな。あとは12月に全日本選手権あるのでそこを視野に入れて。今月のも観に行ってレベルを観察してきました。そこへ向けて取り組んでいこうと思っています」
――階級は?
「大会ごとにアマチュアの階級ってバラバラで。軽い階級もあるところはあるんですけれど、ないところだとけっこう重くなってしまうので。一番軽くても45kgよりは重いので、出来れば一番下の階級から攻めていきたい。様子を見ながらやっていこうかと」
――どこのボクシングジムに所属する?
「今のジムとの契約は2月まで残っていてまだ言えないんですが、ここに拠点を置こうとはほぼ決まっていて。ジャブからサークリングの仕方から練習しています」
――そのジムを選んだ理由は?
「トレーナーさんの教え方が好きとか、ジムの雰囲気だったりとか、ご縁もあって。あとはボクシングが好きなので、見ている時にこの人は生まれ持った才能だとか、これは努力で身に着けたものとか、そういうところを見てこういう選手になりたいなと自分の中で考えがあって。お手本にしたい選手がいるところを選びました」
宮田P「3月に試合してすぐにその申し出があって話をしていて。プロモーターとしては(K-1で)頑張ってほしいんですけれど、彼女の人生だし夢があるし、そういったものに対しては送り出してあげるべきだと思ったので。ずっと彼女にはK-1王者という肩書がついて回ると思うんですよね。武居由樹くん然りなんですけれど。そういう意味でファンに新しい夢を見せていってほしいとK-1としても期待しています」
――最後にファンへのメッセージを。
「今までたくさん応援してもらって…(声を詰まらせて涙)20代前半で経験できないことをたくさん経験させてもらって、感謝の気持ちでいっぱいです。大好きな格闘技が嫌いになっちゃいそうなこともありましたけれど、今こうして離れてみて会場で会うお客さんとか、いま美容室メインでやっていますけれど、お店に来てくれるお客さんとか、つらいことば目に入りやすいけれど、こんなに応援してくれる人が多いんだって思わされることが多かったので。
これも今まで支えてくれたK-1関係者の皆さんだったり、この舞台で戦わせていただいたのは自分の財産だと思っているので、感謝の気持ちは次の舞台へ行ってもさらに飛躍できるように、K-1王者の肩書きを持ったままベルトをかき集めていきたいので、舞台が変わっても応援していただけたら嬉しいなと思います。K-1に協力できることはやりたいと思うので、今後とも自分のこともK-1のことも応援よろしくお願いします。6年間ありがとうございました」